「この文章には、あることの他にないことも書かれている。ここで読んだことは、あくまで『ここだけの話』としておいてもらいたい。ご利用は自己責任で、ということである」
劇場アニメ『GODZILLA』シリーズ(以下「本シリーズ」)が完結した。
個人的に色々と不満が残る出来だったので、初めは演出等についてツッコミを入れようかと思っていたのだが、もっと重要な話があると思ったので書き直した。
ネタバレ全開なので、観る予定の人はブラウザバックすべし。
はじめに
劇場アニメ『GODZILLA』は、(私の記憶が正しければ)『シン・ゴジラ』公開の興奮も冷めやらぬ頃に制作が発表された、全編3DCGアニメシリーズで、確か去年に三部作中の一作目が公開され、今年の前半に二作目が、そしてつい先ごろ三作目が公開され、無事完結した。
ちなみに私は、別に楽しみにしていたわけではなかったのだが、どういうわけか三作とも初日に劇場で観ている。
この身に染み付いた怪獣映画好きの本能なのか、何か運命めいたものが絡んでいるのか。
ともかく、私は観た。そして失望した。
端的にいうと、この作品は映像として失敗している。
見せ場が薄く、尺の取り方のバランスが悪く、人間ドラマも設定も描写が浅い。
そして、これら全ての理由は、恐らく企画段階での方針設定に失敗したからだと思う。
謎の製作体制
本作の製作においては、その体制に明らかな問題がある。
以下のリンクに詳しいので、インタビュー中の瀬下監督の発言から、核心的な部分を引用しながら続ける。
問題の部分はインタビューの序盤に記述されている。
とはいえ、その始まり方は、怪獣映画の歴史を知る者からすると妥当なものといえる。
企画の初期段階で東宝さんから「このアニメ版ゴジラは怪獣プロレスにはしません」という宣言というか、方針確認があったんです。
少し解説すると、初代以降、子供向けの路線を狙ったゴジラシリーズは、画面をより分かりやすく派手にするため、様々な怪獣を創造してはゴジラの対戦相手としてあてがい、ゴジラと別の怪獣の戦闘シーンを最大の見せ場とした作品を濫造していった。
これは短期的には大きな反響があったが、子どもたちが成長すると見向きもされなくなり、次世代の子供達は別の娯楽を見つけていたこともあって、時代が下ると共に単に不人気になっただけでなく、シリーズ全体に「子供だましで陳腐」というイメージを植え付けてしまった。
こうした印象からくる、「怪獣で当時流行りのプロレスをやっただけの安直な展開」を揶揄した表現が、ここで語られている「怪獣プロレス」である。
この悪印象と怪獣プロレスの悪しき伝統がため、怪獣映画は長い冬の時代を過ごしてきており、平成ガメラシリーズなど時折話題になる作品はあったものの、ジャンルとしては限りなく死に近い状態にあった。
『シン・ゴジラ』でこうした印象は払拭されつつあるが、東宝側に以前と同じ轍を踏みたくないという思いが強かったであろうことは想像に難くない。
これに対して瀬下監督は、以下のように述べている。
日本だと「怪獣という存在」と「怪獣プロレス」がどこかでセットのイメージがあって。だからこそ「プロレスをしない怪獣」というのは、大胆な切り口であり、虚淵さんは原案を考えていく段階で、そこを起点にしていました。
これは怪獣映画について考える上では良い、というか現在では必須の着眼点といえる。
もはや子供向き作品としての怪獣映画に道はない以上、大人でも楽しめるエンターテイメントとしての研究は必要不可欠だからだ。
ところが、ここから雲行きが怪しくなってくる。
(※本作には監督が二名おり、もうひとりは文中にある静野監督、脚本は虚淵氏である)
この発言に見られるように、静野監督はゴジラシリーズを見たことがない。
そしてその状態を維持し、
そんな静野さんの「ゴジラが口から火吐くのはどうなのかな」とか、その視点でしか出てこないアイデアが、結果的に、「ゴジラ」シリーズを見たことがないような女性ファンがアニメ版ゴジラを見てくださっているという流れを生み出し、戦略目的は達成できています。(以下略)
と、「戦略」に向けて活かした旨が語られている。
この女性ファン云々については大ヒットを飛ばした『シン・ゴジラ』や人気声優の力であって、静野監督のアイデアによるものではない気が大いにするが、そこはまあよい。
問題は、こうして生み出された「意図的な盲点」がジャンルを研究するという創作活動の一過程に、明らかに致命的な欠陥をもたらしていることだ。
繰り返しになるが、筆者は本シリーズを全て公開初日に観た。
その上でいうが、結果として本シリーズは、怪獣プロレスを怪獣映画のエッセンスごと棄却するという完全に斜め下の回答を提示している。
この一因に、ジャンルについて知識もなければ研究もしていない静野監督があることは疑いない。
「部外者」としての斬新な意見をあろうことか監督に求めるという体制*1は完全に裏目に出ており、怪獣映画の面白さを知らない人物が、怪獣映画を作ることを強制されて出来た映画になってしまっている。
この件については監督をサポートすべき二者(瀬下監督と虚淵氏)の方により大きな責任がある。
結局は彼らも、自分たちの知っているはずの「面白さ」を伝えきれなかったという点で怪獣素人に毛が生えた程度と言われても仕方がないであろう。
こんな三者がトップに立つ制作体制なのだから、結果は火を見るより明らかであった。
あがきとSF
トップが事実上怪獣映画の面白さを理解していない人間の集まりになっているとはいえ、企画としてこれは「ゴジラのアニメ映画」であり、ゴジラを出さざるを得ないし、怪獣映画のエッセンスをほとんど捨ててしまうとなると、ゴジラに関係することで何か別の面白さを導入する必要があった。
ここで生まれてきたのが、怪獣について新しい映像的演出を模索するのではなく、怪獣をSFの一設定ととらえ、それについて掘り下げるという発想であった。
これだけを捉えても別に斬新なわけではない。
初代「ゴジラ」の頃から、かくも巨大な生物が存在する理由について「原水爆実験」というSF設定は既に与えられていたのだから。
決定的に異なるのは、従来の作品がまず怪獣の映像的価値を前提とし、そこをメインに据えた上で、飽くまで補完的にSF設定で穴を埋めていったのに対し、本シリーズでは怪獣の映像的価値が重視されないために、むしろSF設定が主題となっている点だ。
もう少し簡単に言えば、これまでは「ロマンある映像のツッコミどころが減りさえすればいい」という位置づけだったSF的考察が、本シリーズでは最重要のテーマとして作り込まれ、むしろ「設定上よくできていれば、結果的にできあがる映像は地味でも構わない」とまで思い切られている。*2
この結果、映像としての退屈さは加速することとなったが、反面、SF的考察はこれまでにない鋭さで掘り下げられることとなり、ここに関しては一定の斬新さはあったし、筆者も価値があったと思う。
方針としては。
そう、あくまで方針としてはの話である。
描ききれなかったSFゴジラ
ここからは劇中の具体的な描写に触れながら話を進める。
本シリーズは早い段階で、作品によっては神のごとき扱いすら受けるゴジラ、ひいては彼を含む怪獣という存在そのものの何たるかについて語ることを匂わせている。
たとえば一作目中盤では、変わり果てた地球がゴジラを生態系の頂点とし、彼に奉仕するために生命システムを形成していることが明言される。
また二作目ラストでは、ナノメタルとの融合によりゴジラを倒せるまでになった存在は、それ自体がゴジラを超える怪獣そのものなのではないか、という新たな怪獣の定義が提起され、巨大で強い生物という素朴な怪獣観に揺さぶりをかけてくる。
特に二作目は、メカゴジラが本来の姿の代わりにメカゴジラシティなる要塞の姿で登場し、広報内容との不一致が見られたため、批判の声が根強い。
しかし筆者に言わせればそんな表面的なことは批判するに値しないし、斬新と称える価値もない、ごくどうでもいいことである。*3
本シリーズのテーマは即ち「怪獣とは何か」であり、そこを捉えて眺めてみれば、この二作で描きたかったこと、徐々に明らかにされてゆく怪獣の新定義というものは、なかなか興味深いものだ。
そして三作目の冒頭で、このSF的な設定の面白さは頂点を迎え……実に肩透かしな結果に終わる。
一作目・二作目ともに、人類が文明の頂点を極め、原水爆実験を繰り返していたころに、突如として怪獣が襲来したことが語られ、文明の発達が怪獣発生の原因であることがほぼ明示されている。
これはゴジラシリーズではお馴染みの設定であり、要するに怪獣とはスケールのでかい公害のようなものなのだと理解すれば良かった。
ところが本シリーズにおいてこれはミスリードで、一作目・二作目で下準備を終えた上で三作目は次のように述べる。
「文明が偶発的に禁忌を犯したがために怪獣が生まれるのではなく、文明そのものが初めから怪獣を生むためにあったのではないか?」
正直に言えば、これを聞いた筆者は興奮した。
冷戦が終わって久しく、核戦争の脅威が現実的には遠のきつつある現在、もはや公然とは行われなくなった原水爆実験の設定は色あせつつあるし、そもそも文明の弊害、天罰という科学に対する懐疑主義もやや使い古された感がある。
そうしたなかで、「文明が怪獣を生むのはなぜか」という問いに対し「まず怪獣ありきで、文明が怪獣のためにあったとすれば」と逆転の発想を持ち出してきたのは、文句なく素晴らしい切り口だったと言ってよい。
ところが実に悲しいことに、本シリーズの設定の面白さは、この後さらなる展開を見せることはなかった。
三作目ではこの考察が口にされた後、はっきりとは否定も肯定もしないまま、しかし展開としては暗に肯定しつつ話が進む。
そして結局、全ては摂理であると結論され、それに対してどう対応するかという人間ドラマに主題が移ってしまうのである。
これには実に失望させられた。
人間ドラマが駄目だというのではない。
すぐそこに石油が透けて見えるほどに迫っておきながら、あっさりと油田を捨ててしまう勿体なさ。
そこから感じざるを得ない、制作陣のテーマそのものに対する関心の薄さ。
筆者は本シリーズを紛れもない失敗作だと確信しているが、それは斬新すぎたからでは断じてない。
斬新さを目指して取り組んだテーマに対して不徹底だったからである。
怪獣とは何かということ
先の考察に価値があったことを筆者は認めるが、実のところ、この考察を掘り下げるという方針にはもともと無理がある。
これはなぜかというと、ゴジラの源流であるキングコングが(痩せたメガネザルではなく)巨大なゴリラな理由について、「その方が迫力があって面白いから」以外の答え*4を見つけようとすれば分かる。
怪獣が存在することに、映像的価値以外の根拠はないのだ。
怪獣は、まずビジュアルありきで作られてきた存在であり、まぎれもなく映像の一ジャンルではあるが、SFの一ジャンルとしての性質は薄いのである。
SFとして怪獣を掘り下げることの難しさはここに原因がある。
要するに怪獣としっかりしたSFの組み合わせは、意外に相性が悪いのだ。
SFとして作り込めば作り込むほど、怪獣の本来の持ち味である破壊のカタルシス、派手な戦闘や生物としての愛嬌は薄まってしまう。
だから大抵の怪獣映画は、まず怪獣の見せ場を確保したあとで、それを違和感なく鑑賞できる理由付けとしてSFを利用しているのだ。
本シリーズは怪獣映画としての魅力をほとんど切り捨ててしまっているため、それに代わるSF映画としての面白さは全力で追求せねばならなかった。
つまり「これ以上は無理」と言えるほどスッキリするまで、設定を作り込み、掘り下げなければならなかったのだ。
具体的には、「文明は怪獣を生み出すためにあり、人類はゴジラの前座」なのだというのならば、それに対しても「なぜか?」というさらなる疑問を持たねばならなかった。
だって、ほとんど同じように発達している現実の我々の文明には、怪獣発生の兆候すらないのだ。
文明がその性質として最終的に必ず怪獣を生むと言われても、メカニズムも明らかではないため、眉唾ものに思えてしまう。
劇中の文明から絶対に怪獣が出てくるというのならば、我々の文明との違いは何なのか。
これは当然の疑問であろう。
同様に疑問を持つべき部分は、他にも随所に見受けられる。
「そもそもゴジラはなぜ単一の巨大個体という形態をもつのか?」
「ゴジラは植物に由来する設定だが、ではなぜ爬虫類めいた姿をしているのか?」
「異星どころか高次元の存在であるギドラもまた爬虫類に類似した姿をしているが、これはゴジラと共通している。なぜか?」
ざっと考えただけで、これだけの疑問が湧き出してくる。
これらはメタ的には怪獣にシリーズが与えてきた共通項をそのままなぞったがゆえであるが、だからこそSF的考察を重視する本作では、何らかの設定が付与されており、開陳されていなければならなかったはずである。
これを「摂理(要するにたまたまそういう宇宙だったということ)」の一言で説明してしまうのはあまりに勿体無い。
無理があるのだと言うのではない。勿体無いというのだ。
そこを掘り下げねば、わざわざSFゴジラを志向した意味がないではないか!
しかもこの疑問、割と簡単にこじつけられてしまう。
高次元怪獣*5ギドラという便利な存在がいるのだから、全部彼のせいにしてしまえばスッキリとカタがつくのだ。
宇宙の造物主であるギドラが、自らの要素として生命の種を撒き、それが(事前にギドラによってそのように設計されているため)文明として芽吹き、最高の贄である怪獣として結実する。怪獣が巨大爬虫類型なのは創造主であるギドラに近い存在なためで、単一なのはその方が食事の際に手っ取り早いからである。
という設定にでもすれば、ギドラを中心とした宇宙観が展開し、大きな偶然はたった一つ、「神は巨大な竜の姿をしている」というものだけで済む。
少なくとも「摂理」の一言で済ませる本編よりはこれでもいくらかマシになったであろう。
多くの選択ミス
これまで述べてきたように、本シリーズは、
①歪な制作体制のもと
②厳しいテーマを敢えて選択し
③しかも不徹底
という三重苦をすでに抱えているが、恐ろしいことに問題はこれにとどまらない。
虚淵氏の描く人間模様については好みの域を出ないし、映像演出に関してはまあ……正直これはエンターテイメントとして既に問題のあるレベルに突入してはいるが、キリがないのでここでは取り上げないでおこう。
なお語る価値のある第四の苦は、本シリーズがこの他にもことごとく、本当にことごとく様々な選択を誤っていることだ。
最初の誤りは、「怪獣プロレス」を「怪獣が派手に戦う絵面全般」と解釈したとしか思えない映像の捨てっぷりでありながら、なぜか「怪獣と戦う」という要素だけは残しているという見せ場の選択ミスだ。
いや、別に戦闘シーンをゼロにしろというのではないが、ここまで怪獣映画要素を否定してしまった以上、怪獣との死闘をメインの見せ場にするのは無理がある。
当たり前だが、ゴジラとの死闘をいくらカッコよく描いて見せたところで、「怪獣とは何か」という本作のテーマにはほとんど寄与しない。
むしろ、主人公が物質的にも精神的にも余裕のない状況に置かれているせいで、こういった深い考察を必要とする世界観の説明になかなか持って行けず、結局まともに本題に入ったのがゴジラと自力で戦う手段を完全になくしてからだというスロースタートぶりである。
ゴジラに砲弾があたっても死なない理由だとか、なぜ熱線を吐けるのだとかは、怪獣とは何かという本シリーズの深遠な問いの前では些末な問題に過ぎないし、最悪「勝手に想像しろ」で済む話だ。
本シリーズではこういったどうでもいい設定は詳細に語られる割に、本当に大切な設定については解説役の「マーティン博士」だけが時々示唆的なことを言うにとどまる。*6
はっきり言って、テーマを理解するためにはこの人物の発言が最重要になっていて、それはつまり、設定の開陳を便利キャラに頼った粗雑な構成であることを意味している。*7
はっきりと分かる制作側の「見せたがり」であり、どの設定をしっかり見せていくか、という構成上の選択ミスである。
そもそもSF的な設定を見せていく、という構造は、言い方を変えると「世界の真実を明らかにしていく」というものであり、ジャンルとしてはサスペンスやミステリー、ドキュメンタリーに近い。
これらも娯楽要素としてちょっとしたアクションが入ることはあるが、それをメインに据えるとおかしくなって当然なのである。
本シリーズの場合ならば、SFとしては、たとえば科学者である主人公が、地球を滅ぼしたゴジラを激しく憎みつつも、怪獣とは何か、人類はなぜ滅びねばならなかったのかという疑問に取り憑かれ、同様に怪獣によって滅びた様々な惑星の文明の跡地を歴訪する、というメインストーリーがテーマに沿っていただろう。
言うまでもなくこの場合、主人公の性格はマーティン博士に近いものになる。
あれほど使える便利キャラならば、いっそ主人公にした方が据わりが良い。
博士が気づくと同時に観客も気づき、共に宇宙の真実に一歩、また一歩と近づいていくわけである。
たったひとつの冴えたやりかた
さて、最後にラストシーンの話をして筆を擱きたいと思う。
物語の結末に、主人公ハルオは、自分の存在が、より正確には決して捨てられないゴジラに対する憎しみが、いずれ地球に再びギドラを呼び寄せ、破滅を招いてしまうことを悟る。
そして、その芽を摘むために、再び文明の悪夢をもたらしうる諸々をたずさえて、ゴジラに特攻し果てるのである。
これ自体は自己犠牲のエンディングであり、まあ話としてまとまってはいる。
だが問題はある。*8
ネットの評価を見てみよう。
このシーンについて、
「自分勝手だ」「なんであんなことをするのか全然分からない」「自己満足」
といった意見がしばしば見られることに気づくはずだ。
残念ながら、これらはそこまで少数の意見とは言えず、明らかな理解力の不足がもたらす意見とも言えない。
これは劇中には、これが自己犠牲であることを表す表現が意外に少ないからだ。
ハルオが文明の利器を(自分と共に)破壊した理由については、大方の人は正しく理解しているであろう。
マーティン博士が再利用する方法を発見してしまったため、そこから文明が再興することがほぼ明白になり、その果てにゴジラとギドラがいることをハルオは知っていたからだ。
これについては作品のテーマのようなものなので、まあよい。
だが、ハルオが自ら命を絶った理由についてはそうではない。
この行動は、それ以前のメトフィエスとの対話の中で語られた台詞を、ほとんど唯一の根拠としている。
要約すれば「ゴジラを怪獣足らしめているのは人々の憎しみであり、ギドラは怪獣がいるところに降臨する」というものだ。
憎しみについては何度か語られるものの、いずれも抽象的かつ、本来の目的を悟られぬよう、メトフィエスがぼかした言い方をするので、それが本シリーズにおける核心的な怪獣の定義であることは分かりにくい。
聞き逃す可能性を考えると、もっと分かりやすく、しつこいくらい反復しても良かったし、決定的な部分はさらりと発言しているのでインパクトもない。
なにより発言者がメトフィエスだというのが致命的である。
一般的な現代日本人の感覚からすると、この人物は只者ではないものの、狂信者であり、わけの分からない破滅的な教理に取り憑かれている。
哲学的なことを口にはするが、その信憑性について、観客は判断しかねるのだ。
にもかかわらずハルオがこれを根拠に自殺的な特攻をしてしまうため、メトフィエスを疑う立場の人の目には、この行動は自己犠牲とは映らないのである。
結局のところ、これも本シリーズがSF設定を開陳していくことを主題としているにも関わらず、選ばれた展開がそれにそぐわないことによる弊害だ。
最初から十分な時間をかけて、一つ一つの重要設定を丁寧に取り上げ、とりわけ最後の真実*9は誰の目にも明らかに劇的に取り上げるべきであった。
これを宇宙を旅する科学者の物語として、ドキュメンタリー風に、全てがラストシーンに向かって収斂するように構成し、知性=憎しみの大本であるギドラを中心とした宇宙観を描く。
完璧だ。
映画でさえなければ。
そう、ここまで述べてきた対案は、全て小説向きのプロットである。
本シリーズについて最後に指摘する問題は、これだけ映像化に向かない作りをした作品を、映画として公開したことである。
わざわざ映画にしたがためおかしくなった部分が実に多い。
実験的な作品として小説で公開し、これまでの怪獣観を塗り替える。
それがあのラストシーンを描く、たったひとつの冴えたやりかただったろう。
*1:どう考えても怪獣映画を見たことがないスタッフを呼んできて一緒に話を聞いてもらう方が早いであろう。
*2:これは本作が映像作品にあまり向かないことを意味している。たとえば文字媒体なら、また結果は違ったろう。
*3:言うまでもないが、娯楽映像としては問題がある。
*4:無い。
*5:要するに神。
*6:さきほど紹介した三作目冒頭の提起も、この博士によるものである。
*7:細かいことだが、映像ではなく全て台詞で説明してしまうのにも映像作品としては問題がある。
*8:この期に及んで正直もう言いたかないのだが、この映画は粗が多すぎる。
*9:つまり憎しみこそが怪獣を怪獣たらしめる要素であり、ギドラを呼ぶ条件であること