第一幕「過去へ」
野比のび太には祖母がいた。
優しげな眼差し、しわしわの顔、曲がった背、そして灰色熊をも絞め殺す膂力。
祖母は幼いのび太にとってヒーローであった。
「のびちゃんは、本当の強さを持っているんじゃないのかい」
幼稚園でいじめられ、泣きついてきたのび太に祖母はそう言った。
無才ゆえに一族の恥と謗られてきたのび太にそんな言葉をかけてくれるのは、祖母だけだった。
そんな祖母も、もういない。
グレートバリアリーフで鮫と決闘する、そう書き置きを残して姿を消して以来、音信不通である。
「母さんは今も太平洋に眠っているのさ」
通夜のときも、父は悟ったように言うのみだった。
今やのび太は小学5年生。
平均的な野比家の男性であれば、そろそろ武勲の一つも立てなくては行けない頃である。
「駄目だよぉドラえもん! ジャイアンに勝てっこないよぉ!」
「甘えるな! ここでジャイアンに勝たなければ、ジャイ子だぞ!」
「ジャイ子だぞ!」というのはのび太とドラえもんの間でのみ通じる隠語である。
未来から来た子守ロボットであるドラえもんは、のび太がこの先どうなるかをある程度知っている。
運命を変えなければ、のび太はジャイアンの妹であるジャイ子と結婚することになる。
結婚生活は、地獄となる。
ゆえに、この言葉は「地獄の運命が待ち構えているぞ!」の意である。
「勝ったからって、どうなるのさ! どうせジャイ子なんだろう!」
「なに!」
「どうせ僕なんて、何をやっても駄目なんだ!」
のび太はわっと泣いて突っ伏した。
いじけている。
こうなっては長いことを、ドラえもんは知っている。無意識のうちに舌打ちが出た。
やむを得ず、腹のポケットに手を突っ込んで、濃いピンク色の液体が入った小瓶を取り出した。
「よし、よし分かったよ、じゃあ勝ったら、これをやる!」
「なんだよそれ」
「媚薬だ。これでジャイ子以外の人間と結婚すると良い」
「びやく? なにそれ?」
「どんな人間も君にゾッコンになる惚れ薬だよ」
「ひゅう、さっすがドラえもん!」
のび太は一転して上機嫌になった。人間という生物の愚かしいまでの単純さにドラえもんは苦笑した。
「あっ、でもまず勝たないといけないのか。でも無理だよお! 知ってるでしょう、僕が弱いの!」
「確かに、冷静に考えると機動外骨格を使ってもなお負ける君のことだ、今回も勝てない可能性は高いな」
「駄目じゃないか!」
「君にも、こう、なにか取り柄はないのか。あやとり以外でだぞ」
のび太はグスグスと鼻を鳴らしながらしばらく考えて。
「射撃」
といった。
「駄目だ。前に試したろ。撃ち合いで勝ってもその後に油断するんだから」
「じゃあどうしろっていうんだよお!」
「うーむ、のび太くんを力強く鍛えてくれる人でもいないものか……」
「そんな人、この家にはいないよ……僕を認めてくれたのはおばあちゃんだけだ」
完全にいじけたのび太がつまらなさそうに言う。
ドラえもんはいつものことながらため息をついた。
「では仕方ない。そのおばあちゃんとやらに会いに行くか」
「ええっ、いいの? いつもはタイムマシンを使うなってうるさいじゃないか」
「君を強くすることが先決だよ。大丈夫、連れてくるわけじゃないから、多少握らせればTP(タイムパトロール)も黙ってるさ」
ドラえもんは言うなり、のび太の使用感の薄い勉強机の引き出しを開いた。
その中には、七色に輝く異空間が広がっている。
ドラえもんのタイムマシンが駐留する、時空間流だ。
「さあ、いくぞのび太くん、おばあちゃんに会いに行こう!」
「うわあ楽しみ、僕だって分かるかなあ!」
一人と一体はいそいそとタイムマシンに乗り込むと、時間設定を7年前へと設定した。
祖母が太平洋に発つ、2年前。
これなら確実に会えるはずである。
「しゅっぱつ、しんこー!」
のび太が元気よく叫んだ。
第二幕「祖母」
音速を超える拳打が、黄色いシャツの胸元に吸い込まれる。
衝撃が一点から背中に向かって拡散し、心臓と肺を完膚なきまでに破壊した。
「げべべげべべえ!」
のび太が危険な悲鳴を発し、口から大量に喀血しながら吹き飛ぶ。
「のび太くん!」
慌てて駆け寄ろうとするドラえもんの前に、影が立ちふさがった。
タイムパトロール? 否。
それは。
「笑止……。7年経って少しは成長するかと思っていたが、蓋を開けてみればこの体たらく!」
隆々たる筋骨。派手に浮き出た血管、頭髪は悪魔のように逆立ち、眼光で射すくめられた生物は心拍を停止する。
ドラえもんの前に立つ、この無敵の風格こそ、のび太の師。
彼の祖母その人であった。
「どいてください! のび太くんが死んでしまいます!」
「ガラクタがァ」
のび太の祖母が丸太ほどもある腕を一閃する。
とっさに躱したドラえもんの頬には、青黒い人工血液のにじむ傷が、一筋うきあがった。
鎌鼬。
超高速で振り抜くことにより、瞬間的に手元に真空を作り出し、その圧力差で物体を切り刻む。
純粋格闘技においては存在しないはずの飛び道具……ですらない。
真空はその性質上、全方位に引力を発生させる。
つまりこの技は、周囲のあらゆるものを、無差別に切り刻む!
結果として、ワンテンポおくれてドラえもんの背後にあった電柱が切断され、身体を両断された通行人がものも言わず息を引き取った。
(おいおい……)
ドラえもんの頬を、冷却液(あせ)が滴り落ちる。
(おいおいおいおい……話が違ぇじゃねえかよ、のび太!)
彼の話では、祖母は優しい包容力のある女性のはずだった。
すでに事切れているのび太にはいま確かめようもないが……事情は想像できる。
”解離性障害”!
ヒトが、虐待などの耐え難いストレスにさらされた時に、まれに見られる現象である。
恐らく幼少期ののび太は、多少の手心は加えられていたであろうが、今のような壮絶なしごきを受け続けていたはずである。
同族から出来損ないと嘲られ続けたのび太の心は、すでに限界だった。
彼は想像(つく)ったのだ。ありうるはずもない、たった一人の味方(祖母)を!
彼女が姿を消したのを良いことに、偽りの記憶を自ら信じ込んで!
(のび太くん……)
(軟弱者が!)
瞬時にドラえもんの陽電子頭脳を焼き切らんばかりの憤怒が支配した。
のび太のくだらない逃避行動が、結果としてドラえもんの危機を招いている。
のび太はいい。どうせスペアのドラえもんが派遣され、蘇生処置を受けられるのだから。
だが、今、いまここにいてこの祖母(化物)と相対している俺は、俺以外の何物でもない。
俺にとって、俺の代わりなどいないというのに。
「どうしたガラクタァ、あの劣性遺伝子を助けるんじゃないのかァ?」
祖母が、唯一そこだけは話通りのしわくちゃの顔を歪めて笑った。
罅だらけの岩壁に笑いかけられたかのような強烈な違和感と嫌悪感が、ドラえもんを襲う。
自己保存システムが発狂寸前の頻度で逃避行動を提案し続けていた。
だが悲しいかな、いかにヒトを超えた性能を誇ったとて、彼は使役される電子人形。
メインスペースに刻まれた絶対命令には、逆らえないのである。
「それが仕事ですからね」
ポケットに手を突っ込む。
腕の一振りで、その場から動きもせずこちらを切り刻める祖母に対して、致命的なまでの隙。
だが祖母は動かない。面白げにドラえもんを観察している。
(そう来ると思ったぜ!)
絶対的強者は、しばしば相手を侮る。
アタマが悪いのではない。矜持なのだ、それが。
油断してなお勝利を掴む、そこがスタートライン。出来て当然のパフォーマンスなのである。
結果として、そのありうべき油断が、ドラえもんの勝機を生む。
「ふん。なんだ、それは? 臭いがしないな」
「匂いでも漏れると危ない代物なんでね」
取り出したるは濃いピンク色の液体。
のび太に媚薬と言った、あの薬であった。
祖母は、正体不明の薬品を前にしてなお動かない。
手足を軽く開き、リラックスした体でドラえもんを観察し続けている。
「ドーピングアイテムか? ……いや、お前のような屑鉄に効く薬などない。……では、毒か」
祖母の目がすっと細められる。
口元が不機嫌に下がった。時間を無駄にした、と言わんばかりに。
「わしに毒が効くと思うか? 毒血の行など半世紀前に終えておるわ」
「こいつは強力なんですよ。いかにあんたでも、イチコロだ」
勝機はたった一つ。
媚薬を、直接心臓にブチ込む。
通り抜けフープと、この高精度の腕さえあれば、万に一つとはいえ不可能ではない。
ドラえもんは覚悟を決めた。
「行きますよ」
「これ以上失望させるなよ」
戦いのゴングが、新たに鳴り響いた。
(続く)