雑炊閣下備忘録

ブログというものを始めてみることにした。どうなるか分からないが、いろいろやってみようと思う。

『現代陰陽師は転生リードで無双する』の炎上について。~好奇心旺盛な人間どもと祭りに参加したいアホに向けて~

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1.この記事について

 Web小説『現代陰陽師は転生リードで無双する』が炎上している。
 この記事は、偶然にも約2ヶ月前からこの小説を読み始め、ちょうど現行のエピソードに追いついたとたんにこの炎上騒動に遭遇したこの俺が、いまから小説を読み始める(3年分80万字)のはアレだけど内情が知りたいという好奇心旺盛な人間どもや、小説自体に興味はないけど炎上しているのが面白いのでその無様な実態を知りたいといういっちょかみのアホのため、分かりやすく、しかし詳しく解説する記事である。

 

2.作品解説

 『現代陰陽師は転生リードで無双する』(以下、「本作」)は、タイトルを読めば分かるように、転生者である主人公が、そのチートな能力を背景にして社会的成功を勝ち取るというテーマの作品である。世界観的には、怪異やガチ霊能者の陰陽師集団が実在する現代日本を舞台にしたファンタジーだ。
 作品の特徴としては、主人公が徐々に成長していくのをあまりスキップせずに描写している点が挙げられる。さすがに赤子の時はそんなに長くないが、生まれたときから話が始まってリアル時間で3年が経過する2025年現在、まだ主人公が中学校に入学したところであるといえば、そのスローペースぶりがよく分かるであろう。
 このように作中時間の経過としてはかなり緩やかな作品だが、対照的に主人公の活躍具合はチート系作品らしく華やかで、上述した中学入学の時点で少年の主人公はすでに日本最強とみなされているし、実力的にも疑いのない状態にある。他に、大人でも手も足も出ないような強大な怪異をワンパンで倒したり、飼い主の霊力次第で種類や強さの変わる霊獣がなんかすごい瑞獣みたいなやつになっていたりする。
 言ってしまえばそれだけの作品なのだが、割と丁寧にこういう経過が描かれているので、この3年間はなかなかの人気を誇っていた。(らしい)

 

3.突然の炎上

 そんな本作が、3年の時間と7つもの章を終え、いよいよ年齢的にもキャラクターたちが思春期にはいる8章に突入したところで、事件はおきた。
 この経緯については、軽く調べれば分かりやすくまとめている文章に出会うことは出来るが、この記事をわざわざ読みに来ている人間どもはもう少し細かな事情を知りたいであろうから、この記事はそのへんを掘り下げている。
 正確な理解のために、最低限の設定を解説する必要がある。
 具体的な描写に触れたり、ストーリーのネタバレに抵触する可能性があるので、読むときには注意すること。

 

4.作中の家系について

 まず、作中世界で霊力、すなわち怪異と対峙するために必要な超自然的な現象を操る力というのは、誰にでも備わっているものではない。
 持って生まれた才能があり、適切な訓練を経て初めて使用可能になる。そして才能は遺伝する。
 勘の良い人間どもはこの時点で気がつくかもしれないが、こういった才能は稀で、ゆえにこの世界の陰陽師は非常に血統主義的な集団であり、職務は世襲化し、いくつかの有力な家系が国家の霊的な防護を担う状態となっている。早い話が、現代日本を舞台にしていながら、陰陽師社会は前時代的な、貴族社会に近い構成をしている。
 こうしたなかで、関東陰陽師社会の頂点に君臨しているのは個人ではなく「安倍家」という家系である。彼らはもちろん安倍晴明の末裔で、周囲を固める他の有力家系も、安倍の分家であったり、婚姻関係を結んで縁の深い家系であったりする。
 対して主人公の実家である峡部家(きょうぶと読む。ケッタイな名である)は没落した家系であり、かつては栄えていたらしいが、物語は始まった時点では、ほぼ断絶寸前の核家族にまで落ちぶれている。本作は、没落貴族の出身である主人公が実力で目にものを見せ、実家をもりたてる物語だと見ることもできる。

 

5.作中の秘術について

 本作の陰陽師の家系はそれぞれに得意な分野が異なり、たとえば主人公の峡部家は召喚術を得意とする設定がある。このように各家系には、門外不出の秘術が存在し、これはしばしば奪い合いの対象になったり、交渉の材料になったりする。
 血統により受け継がれる才能と、秘術や訓練によるブラッシュアップ。この2本の柱のために、本作の陰陽師の家格と実力はおおむね比例する傾向にある。
 どんな秘術があるのか、さすがに一つ一つ取り上げはしないが、ここで重要なのは峡部家(主人公の実家)から安倍家(業界トップの家)に、秘密裏に秘術の提供があったということである。これは、子供の霊力を大きく上げるが、適合しなければ死亡する可能性が高いという危険なものだった。
 その後、この秘術を使わなくなった峡部家は衰退していき、秘術を最大限に利用した安倍家はその権勢を盤石なものとしたが、生まれてくる子供の多くが適合せず死んでしまうという代償を支払うことになった。
 詳細は省くが、主人公はこの秘術の欠点をなかば克服した人物であることも重要である。

 

6.婚約

 前提となる知識が揃ったところで、そろそろ炎上の核心へと迫っていこう。といっても複雑なものではなく、登場人物は四名にすぎない。

  1. 主人公:ローティーンながら日本最強と呼ばれ、絶大な実績を誇る。安倍家の姫の人柄はよく知らないが容姿は知っている。
  2. 安倍家の姫:かなりの美形。それ以外はほとんど描写がない。主人公とややセンスの違うことが言及されている。1歳年上。
  3. 安倍家当主(姫の親):主人公との婚姻を提案した。
  4. 峡部家当主(主人公の親):主人公の支援者。婚姻に賛成。

 上記のように、十分な実績を挙げた峡部家に対し、関係の強化と5.で触れた秘術の欠点を克服するために、安倍家から婚姻の打診があり、当主同士の会合に同席した安倍家の姫もこれに同意したため、主人公と姫は婚約状態となった。ここまでが概ね好評な第7章までの内容である。

 

7.婚約破棄

 ところが事態は急変する。常通り1週間毎の更新で公開された第8章、その内容は、いきなり6.婚約が破棄されるというものであった。
 婚約が破棄されるまでの経緯は、概ね以下の通りであった。

  • 安倍家の姫には仲の良い幼馴染がいた
  • 主人公と姫の関係はあまり良好ではなかったが、主人公の方は姫を気に入っていた
  • 主人公は姫の機嫌を取ろうと努力したが、無駄に終わった
  • 周囲からもこうした状況は明白だったらしく、なかには主人公に知らせるものもいたが、主人公は目を逸らしていた
  • 上記のような状態が2年継続した

 続いて、婚約破棄の場面について触れておく。

  • 姫は幼馴染と抱き合いながら、主人公に自分との結婚を破棄してほしいよう頼む
  • 主人公は屈辱に震えながら、自分から安倍家当主に婚約破棄を申し出ることを告げる
  • 主人公は上記のような婚約破棄までの2年間(第8章)を後悔とともに振り返る

 なお、重要な情報なので付記しておくが、このような姫の行動は、怪異のような存在による影響を受けたものだという設定がある。
 これは名家の娘としての仮面を剥ぎ取り本音を露わにさせる、というもののようだ。これは本編で言及されたわけではなく、後に作者の解説によってネタバレという形で公開された設定である。

 

8.そして炎上へ

 第8章は、始まるやいなや盛大に燃え上がった。あるユーザーの残した(現在はコメント欄の閉鎖のため確認できないが)「いきなり不快な展開でビックリ」というコメントは、当時の読者が抱いた感想を率直に反映していたと言えるだろう。
 つまりは大半の読者にとって、この展開はまったく予想外のものであった。7.を見れば分かる通り、婚約破棄の最大の要因である「姫の幼馴染」はこれまで影も形もなかったので、予測のしようがなかったのだ。
 コメント欄は大いに荒れた。この際の脊髄反射的な文言として「不意打ち寝取られ」というものが見られたが、これは展開について正確に表現できたものではなく、名状しがたいストーリーへの違和感を最も卑近な形で表現したように思われる。
 読者の解釈がどうあれ、この展開は少なくとも、それ以前の本作の展開と同様に受け入れられることはなかった。日に日に増えていく不評に、事態を重く見た作者は窮余の策に打って出る。

 

9.燃料の追加

 作者が何を考えていたのかを正確に推し量ることは難しいが、一つ確実なのは、読者が青天の霹靂のような婚約破棄に動揺したのと同じように、作者は作者で読者からのあまりに厳しい反応に面食らっていたということだ。
 彼(ほぼ確実に性別は男性であろう)は、表現の意図を説明すると同時に、これから継続していく第8章について、今後の展開を開陳(ネタバレ)することにした。また、第8章の楽しみ方についてまとめ読みするのを推奨することまでした。
 ところが、これがいっそう読者を怒らせてしまう。理由は大きく3つあった。

  1. この展開を選んだ理由について納得が得られなかった
  2. 書く必要のない内容が多かった
  3. 今後の展開について期待を煽ることに失敗した

 コメント欄の不評は、むしろ勢いを増した。作者が報告した近況の文章が切り出され、出回り、さらなる批判を呼んだ。
 ちなみにこのころ、作者が本作につけていた「鬱展開なし」のタグを除去したことも、また批判の対象となった。

 

10.コメント欄閉鎖

 毎日のように迫る批判、あるいは罵詈雑言に、作者は苦悩した。
 彼はさらなる近況報告を行ったが、それは精神的苦痛からコメント欄を閉鎖するというものであった。
 作者へ直接批判を届けられなくなった読者あるいは炎上の便乗者は、主戦場をXやネット掲示板へ移していき、この結果、これら外部のネット空間から本作の炎上騒動を知るものが増え、ネガティブな意図を持った読者と批判者が一回り増えることになった。

 

11.展開の何がいけなかったか

 以上が今回の炎上騒動のあらましである。俺の見る限り、作者の言動は炎上をかなり大規模なものにしてしまったと思うが、やはり物語の展開そのものも問題が多い
 まず最もまずかった点として、今回の展開におけるキーパーソンである「姫の幼馴染」について、それまで全く伏線が張られておらず、完全に新規の存在として物語に「侵入」してきたことが挙げられる。

 言うまでもないが、なんの伏線もなく物語を大転換させるのは、内容にかかわらず、基本的には話を陳腐にしてしまう。これが推奨されるほぼ唯一の例外が「不意打ち寝取られ」という(普通に特殊性癖の)概念であり、ゆえに反射的にこれに言及する読者が見られたのかもしれない。
 次に、姫の行動に一貫性がない、あるいは単純に非常に愚かである点が挙げられる。家同士の婚約、まして姫からすれば自分の家から申し出た縁談なのだから、これを自身の不貞という恐るべき理由で破棄しようとすることは端的に言って狂気の沙汰であろう。
 ただしこの点については、上で付記したように、本来は隠そうとしていた本音が怪異の干渉によって暴露されたという事情があるようだ。この点についてはもっと考慮されなければアンフェアだと俺としては考えているのだが、いかんせん、これが明らかになった近況報告では「どこからどこまでが怪異の影響によるものなのか」が曖昧で、果たしてそれで納得できるようなものか判断がつきにくい。どうせネタバレするならこのあたりの事情を詳らかにすればよかったと思うのだが。
 第三の問題点としては、一方的な理由で婚約を破棄される羽目になった主人公が、とうぜんあるはずの怒りをぐっとこらえて、自分から破談にするよう姫の父に申し出ると伝えている点である。これに関してはそこまでする義理があるとは思えないのが痛い所だ。常識的に考えれば、自分の都合で約束を反故にする姫か、あるいはその相手である幼馴染が話を通すべきであろう。
 他にも細々とした問題点はある(たとえば姫が主人公とうまく付き合えていないのを知りながら、お付きの者たちは何をしていたのか、というのは当然の疑問として湧いてくる)のだが、大まかには上記の3つだ。

 

12.作者のコメントの何がいけなかったか

 これまで見てきたように、物語の展開に問題があったのは確かであるが、どちらかといえばこの騒動をより大きくしたのは、読者の反応に対して作者がとった言動の方である。
 短いものなので、これに関しては一度読んでみるのが早いだろう。

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 感じ方は色々あるとは思われるが、俺としてはまず、「凡夫」とか「だてに前世で独身やってません」といった言葉選びがまずかったと考えている。
 作者としては自身の子も同然の主人公に親しみをもってこういう書き方をしたとは思うのだが、これを書くに至った経緯を考えると、主人公が理不尽な目に遭ったことに憤慨している読者に対して投げかけるのはあまり賢明ではなかった。
 また婚活云々の話も明らかに余分であった。いきなりこんなことを書いては、「作者が婚活で失敗したんだな」といった憶測を呼ぶのは当然である。これに関してはさすがにアホ丸出しという言葉以外、俺は表現の方法を知らない。せっかく書籍化されているのだから、担当の編集あたりに一回でも読んでもらっていれば、少なくともこの部分に返しては止めてもらえていた可能性が高い。
 同様に呪術廻戦どうこうも全く無用の話で、始まるとしても数ヶ月は先の第9章のネタが漫画と被っているかどうかなど誰も興味を持ってはいない。例えて言うなら、謝罪会見に現れた企業役員が、本題もそこそこに新商品の宣伝を始めるようなものである。
 全体として、主人公の恋愛面というか人格面での未熟と失敗を描きたいのだなという意図はわかるが、伏線不足や非常識な展開が続いていく読後感の悪さといった問題点を正確に分析して書かれたものとは言い難く、もう少し冷静になってから書くべきであった感が強い。

 

13.今後の展開について

 上記の近況報告を見ればわかるが、第8章は主人公が空回りする2年間を描いた内容になる。これがまた評判が悪い。
 理由は明白で、このあらすじそのものに面白さが皆無だからだ。この内容は「恋愛面におけるネタバレ」であって、実際には第8章は学園生活などの他の要素を絡めながら展開していくはずであるから、別の部分の面白さが担保されているであろうことは、少し考えればわかる。
 しかし、この文面だけ読むとそれは伝わってこない。というか、わざわざエクスキューズするためにこんな文章を書いているのに、美味しい部分もあることを全くアピールしないでどうするのか。誰も望んでいない第9章のネタバレを書くくらいならそこを書くべきだし、正直俺としては第8章のネタバレを読むつもりでスクロールしたら普通に第9章のあらすじが書かれていたことにキレそうなのだが。


 閑話休題


 主人公の失敗談を長期に渡って描くことが非常にリスキーな選択であることは言うまでもないが、その後の展開についても今ひとつな部分が正直あるので指摘しておく。
 それは、そもそもこの作品はヒロイン(というか女性キャラ)の描写がかなり薄いので、ヒロインレースをやると言われても誰が出走するのか困惑させられることだ。一応女性キャラは数人いるが、正直なところ、ここまでまともな描写がなかった姫と比べてもどんぐりの背比べとしか言いようがない。
 未読の人間どものために、心優しい俺はヒロイン候補のリストを用意してやった。

  1. 幼馴染。あんまり顔が可愛くない(婉曲表現)と明言されている。
  2. 名家の娘。やたら精神年齢が高くクール。
  3. 名家の娘その2。双子。主人公に助けられたことがある。
  4. 名家の娘その3。呪詛に憑かれており主人公が解呪中。まだコミュニケーションはほとんど取れない。
  5. 同級生。不仲な家の娘なため主人公から警戒されていた。主人公のことが気になっている。

 だいたいこんなもんである。「なるほど、よく分からんな」と思うかもしれないが、正直本編にこれ以上の情報が沢山詰まっているかというとそうでもないのでどうしようもないのである。
 ちなみに容姿が優れていることに言及されているのは姫のみで、この点ではむしろここに挙げた誰よりも優遇された立場にあった
 姫はヒロインではなかったというのが作者の意図のようなのだが、それが読者に自然に受け入れられなかった理由の一つは、他のヒロインたちの描写が薄いため、キャラクター間にコントラストが出来なかったことが大きいだろう。

 第7章が婚約で締めくくられたとき、第8章は姫が掘り下げられるのだなと俺もナチュラルに考えた。他のヒロインとの間に、その程度で追いつけるほどの描写の差しかなかったからである。

 

14.終わりに

 インターネットにおける炎上は例外なくクソであり、炎上に加担している者たちはただ騒ぎたいだけのアホである。
 しかし、燃やされる側に燃料があることで、ささいな失火が大火となることもまたありうる。
 俺としてはこのまま第8章を続けて、ハリポタ的に面白い話になる可能性も全然あるとは思うが、言うて作者のほうがヒロインに別に興味もない感じがするし、ヒロインレースとか不得意なことをわざわざやらず、もう適当に姫をヒロインってことにして片付けたほうがマシなのではと考えている。
 というかまとめ読みを推奨するような内容(つまり毎週読んでられないような内容)であるとわかった時点で、週1の投稿スタイルか話の内容かのどちらかを変えた方が良いと思うのだが……。まあもう好きにするしかないだろう。

ドラゴンズドグマ2はクソゲーである

はじめに

 さる3月22日、『ドラゴンズドグマ2』(以下、本作)が発売された。

 かのCAPCOMが贈る新作ファンタジーアクションRPGであるこのゲームは、PS3時代に発売された『ドラゴンズドグマ』(以下、前作)の正統なる続編であり、これはタイトルコールに表示されるロゴが『DRAGON’S DOGMA』(「2」がない)であることにもありありと表れている。

 さて、ここに問題が一つ。前作は端的に言ってかなり微妙なゲームであり、本作はそんな前作の血を不必要なほどに色濃く継いでいるということだ。

 ドラゴンズドグマ2』はクソゲーである。前作のファンであり、今作を満喫している筆者だからこそ、声を大にして言いたい。ファン心理に半ば反することであるが、ゲーマーとしての良心から、こうするのである。本作はファンを含むプレイヤーたちから死ぬほど叩かれまくった方がいいし、開発陣にはその覚悟があると筆者は信ずる。かなり厳しい内容の記事なので、このことをまず書いておきたかった。

 

 筆者はいまさら「クソゲーとは何か」などという回りくどい話をするつもりはない。内容が如何なるものであれ、クソゲープレイしたものに何事かを叫ばせたくなる強烈なパトスを喚起する。本作はその例に漏れず、まぎれもない、令和に現れ燦然と輝く大作クソゲーの一角と述べることが出来る。

 ところで、本作はそれなりにコアな作風であることが事前に分かっていたわけであるが、そんな本作に果敢に調整する覚者たち*1恐怖の悲鳴を上げさせてやまないものとはいったい、何なのか?

 それらは、不親切を通り越して単にプレイヤーに苦痛を与えることのみにフォーカスを与えているがごとき、苛烈な仕様である。断っておくが、本作の難易度は、『ダークソウル』シリーズなどに代表される所謂「死にゲー」とは比較にならないほど低く、選ぶジョブ(職業)にもよるが、さほど操作が上手くなくても十分にクリアできる。

 「勝てない苦痛」や「クリアできない悲しみ」のようなものと、本作は無縁である。その代わりにあるのは、果てしなく続く荒野を目にしたときのような、純粋なダルさである。筆者や読者が日常生活で幾度となく出くわしているであろう雑魚モンスターが、このファンタジー世界では猛威を振るうのだ。それでは綺羅星のごとき要素の数々を、丁寧に見ていくとしよう。ネタバレには特に配慮していないので注意。

ファストトラベルの制限

 まずは最も槍玉に挙げられる、「自由にファストトラベルが出来ない」仕様。これは、たとえば『サイバーパンク2077』にあったような、特定の地点からしかファストトラベルが出来ないなどといったヌルいものではなく、「ファストトラベルが貴重な消費アイテム制で、かつファストトラベル可能な地点が極めて少ない」という仕様である。

 よく知られたことであるが、この仕様は前作からあったもので、今作から新たに加わったものではない。そして言うまでもないが、前作の時点で極めて不評であった。そんな控えめに言って最悪な仕様をなぜ改めて実装したのか、それは本作の発売前インタビューで丁寧に語られている。

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 これに関して、筆者の感想を一言でまとめよう。

 ふざけるなよ。

移動を面白くしてくれるって約束は!?

 本作の移動は別に面白くない。移動速度が単純に遅すぎて爽快感がないし(特に上りの坂道で顕著)、出てくる敵の種類もある程度したらそんなにいないと気づく。あちこちでイベントがあるかと言えば別にそういうわけでもなく、何かあるかと思えば似たような作りの洞窟があるばかりである。昼はいなかったゾンビが夜は湧いたりするが、だから何だという感じでしかない。景色は綺麗なところもあるが、狭隘な山岳地帯が多いため遠くを見渡せるロケーションが少なく、世界の果てを見渡して、あそこには何があるのか、と考えるような体験もない。

 逆にどこを楽しめと言うのか真剣に疑問である。筆者は本作をかなり楽しんでいるが、移動に関しては自分で勝手に意味づけをしない限りは楽しめるとは到底思えない。

こいつらいつも同じこと喋ってんな

 退屈な移動を盛り上げてくれる(はずだった)ポーン*2たちのお喋りの出来があまりよろしくない。全員敬語口調なのはまあそういうゲームだからということで良いが、道中の雑談のパターンがかなり少ない(だいたい4種類くらいでループする)し、なんか発見しても「あれ」とか「それ」とか言うばかりでカメラフォーカスもされないので分かりにくいし、極めつけは「あそこに梯子がありますよ!」みたいな誰でも見りゃ分かる梯子について何度も何度も言及し、ご丁寧にマップに「!」マークを刻み付けてくれる。何回言ったら分かるんじゃ。その先にある宝箱はもう取ったわ。登らんっつっとるやろがい。

襲撃されすぎる牛車。西部劇の機関車かな?

 本作には、消費アイテムを使ったファストトラベルのほかに、拠点同士をつないでいる「牛車」のネットワークを利用するものがある。ならばそれを利用すればいいと考えるかもしれないが、そこは本作、一筋縄ではいかない。

 牛車を利用すると、体感7割くらいの確率で魔物の襲撃を受け、道中のなかば(本当にど真ん中のどっちに行くにも遠い地点)でファストトラベルが中断する。プレイヤーは襲い来る魔物や野盗たちから牛車を守るべく戦い、倒しきればまた牛車に乗ってファストトラベルを再開できるというわけだ。しかし、ここでたとえばミノタウロスの突進が牛車に当たったりなどすると、その時点で牛車は粉砕され、ファストトラベルの再開は不可能になる。つまり、消費アイテム制のファストトラベルを使うか、徒歩で拠点まで移動するしかなくなる。こういうことは珍しくないどころか、頻繁に起きる。

 ファストトラベルを多用するゲームは確かに単調になりやすい。近くの例を挙げれば『Starfield』はまさにこの轍を踏んでいた。なので、繰り返されるファストトラベルにちょっとしたスパイスを加えようということ自体は、そんなに悪いアイデアではない。

 問題は、ファストトラベルの機会自体が貴重(牛車はそもそも路線が三、四本くらいしかないし、別に増えない)な本作において、スパイスを加えるような余地がそもそもないことと、襲撃される確率があまりに高すぎて、襲撃を受けることが当然の状態になっていることだ。このため、本作ではどちらかといえば平穏に目的地に到着する方が「おっ、今回は珍しく何事もなかったじゃ~ん」という感じでスパイスになる。こういうことを本末転倒と言う。ふざけるなよ。

 ちなみに、プレイヤーが繰り返す行為に何かしらの変化を挿入することで新鮮味を加えようという発想は、本作では随所にみられる。たとえば、本作の主要なHP回復手段である野営でも、事前に周囲の魔物をしっかり掃討しておかなければ襲撃されるリスクがある(襲撃されると野営道具が破壊されるリスクがあるところは牛車とよく似ているので、考えたヤツもたぶん同じだろう。ふざけるなよ)。また、首都たる城塞都市でもいきなり魔物が人々を襲撃してくることはあるし、何気なく宿屋に泊っただけでNPCが全滅したりもする(後述)。一周回って逆に感心するのが、このどれもが言うほど面白くなく、むしろこれによる不便が際立っている。しかも、それは素人目にも事前に予測可能だったということだ。本作は「何度も繰り返す行為は退屈」という事実には熱のこもった視線を向けているが、一方で「だから手早く済ませたい」という下の句からは意図的に目を逸らしている節がある。

残念な仲間のAI

意図の伝わらない命令

 次に紹介するのは、本作の目玉でもあるポーンのAIの出来が不十分なことである。ゲーム中、プレイヤーはポーンたちに対し、「GO(行け)」「COME(来い)」「HELP(助けて)」「WAIT(待て)」の四つの命令を出せる。これは少ないように思えるかもしれないが、操作の単純化という点で考えると妥当な数であるし、AIがしっかりしていれば問題はない。

 まあ本作のAIはぜんぜんしっかりしていないので、実際には大きな問題になっているのだが。たとえば筆者はソーサラー(魔術師)のキャラクターで遊んでいたので、ポーンたちには前衛として、特に狭く見通しの悪い洞窟などでは先行してもらいたいわけであるが、洞窟のなかでいくら「GO」を連打しようと、重厚な鎧に身を包んだ屈強なポーンたちはそんな理不尽な命令は聞けないとばかりに、頑として前に出ようとしない。その装備は飾りか? しかも、筆者がゴブリンに出くわし、慌てて来た道を戻ると、筆者を追って目の前を横切っていくゴブリンを剣も抜かずに見つめている。前衛を務めていた(本来後衛の)主人が必死で引き返して来たら、その時点で臨戦態勢になるべきだと思うんだが?

 他には、洞窟を探索中に「GO」を押すと、追跡中のクエストへの道案内が発動するのも、気配りがまるでなっていない仕様と言わざるを得ない。クエストを無視して洞窟突っ込んでんだから「探索を手伝え」の意味しかねえだろ!? 誰がお城の舞踏会に潜入する話してんだよ状況分かってんのか?(分かってない)

足下がお留守ですよ

 足場の認識も甘い。筆者はすでに二回ほど、メインポーン*3のオッサンが戦闘中に水場に落ち、問答無用でロスト(溺死)するさまを目撃している。吹き飛ばしやノックバックでやむなくという話では無論ない。戦闘に夢中になるあまりの入水である。こうした不出来なAIキャラを搭載したゲームでは、今日日、救済措置としてすぐにNPCが復帰するシステムなどがつきものであるが、本作にそんな気の利いたものはない。メインポーンを復活させたければ、最寄りのリムストーン*4まで移動するしかないのだ。

 ちなみにメインポーンはロストするたびに体に傷が増える。よくもまあこんなプレイヤーに嫌われそうな要素ばかり実装するものだが、意図としては歴戦の勇士であることの表現であろう。しかしながら、自分で水に飛び込んで触手プレイのあげくにロストしたヤツの傷など淫紋と同じである。その傷を恥じろ。

出来ない意思疎通

 本作は前作に比べて、ポーンとの交流要素が充実している。といっても、言語的なコミュニケーションの面では上に書いた通りショボくて話にならず、ここで述べるのはもっぱらジェスチャーやハイタッチなどのスキンシップである。

 たとえば落下ダメージ必至な高所から、低所にいるポーンめがけてジャンプすると、ポーンはしっかりとプレイヤーを受け止めてくれる。「私を足場にしてください!」的なことを叫んで踏み台になってくれ、高く打ち上げてくれたり、戦闘が終わるとひそかにガッツポーズをしていたり、プレイヤーとハイタッチしたり拳をぶつけ合わせたりしてくれて、共闘感が増す。

 ところが、うん……残念なことに、ここにも問題はある。それはこうした心温まる交流の暴発や不発が絶えないことである。

 戦闘が終わったあと、ふと見ると、ポーンが片手を出してじっとしている。ハイタッチを求めているのだ。戦闘が終わって一息過ぎており、タイミング的にはやや遅いが、乾杯の時に微妙にジョッキが当たらなかったような感じに違いない。そう思って近づくと、ハイタッチの受付時間は終わっているらしく、手を突き出しているのに何もしない。じゃあ手を引っ込めろや。

 かと思えば、敵の一部を倒し、画面の奥から次の敵が迫っているにも関わらず、呑気にハイタッチのアニメーションが始まる。ハイタッチ中はダメージ判定を受け付けないらしく無敵だが、そういう問題ではない。特に魔法系の後衛にとって、敵が近接距離に到達するまでは詠唱のゴールデンタイムなので、ハイタッチの時間は生死に関わるロスである。

 上から飛び降りるのも、ぶっちゃけそんな使いどころはない。なぜならポーン共が無傷で降りられる場所は、プレイヤーも無傷で降りられるのであり、かつこいつらは素早く降りて主人を受け止めようなどという気の利いたことは一切思いつかないので、低所にポーンだけがいるというシチュエーション自体が珍しいからである。

 このように本作のポーンたちは、その力の入りようとは裏腹に、残念なオツムによって前作とあまり変わらないポンコツ従者と化している。筆者は今作をかなり楽しんでいる方だと思うが、上に書いた洞窟探索の挙動やハイタッチの挙動はさすがにイラっときたし、この欠点を放置する合理的な理由はちょっと思いつかなかったので、純粋に技術的な限界なのであろう。AIをしっかり作りこめるゲーム会社は決して多くないのでこの点を責めるつもりはないが、それならばそれなりのゲームデザインもあっただろうに。切れ味鋭い刀が前提の戦術をなまくら刀で実践するんじゃねえ……。

セーブデータはお一人につきお一つまでとなります!

 次に、理不尽度の高い仕様として、セーブデータの取り扱いについて述べる。

 まずはセーブデータだが、本作は事実上単一セーブ制を採用している。オープンワールドのゲームはその物量やプレイヤーの自由度もあってデバッグが難しく、しばしばクエストの進行不能のような深刻な不具合が生じうるため、プレイヤーが任意で複数のセーブデータを保持し、詰みを自主的に防止するのが主流である。これを裏付ける事実として、最近の作品では大抵、セーブ画面に入った時点で新しくファイルを作る選択肢にカーソルが合わせられており、複数のデータを残すことが推奨されている。

 本作ではセーブデータは上書きされる仕様なので、バグなどによってクエストが進行不能になった場合、リカバリーは困難である。本作ではクエスト進行に必要なNPCが死亡した場合などにも進行不能となるので、他作品と比べてもこうしたリスクは高い方なのだが、それでなぜ単一セーブ制を採用するに至ったのか理解に苦しむ。一応どちらにも対策はあるが、そのいずれも小さくない問題を抱えている。冒険は一回きりだから初回の体験を楽しめって? 二周目があるのと矛盾してない?

ニューゲームが選べなくなったんですが……

 この仕様が生んだ弊害としては、すでに有名な「ニューゲームできない」問題がある。本作のタイトル画面で「ニューゲーム」の選択肢が出てくるのは、セーブデータが存在しない場合に限られる。つまり、セーブデータがある状態で、たとえばキャラメイクをやり直したいなどの理由でニューゲームを選ぼうとしても、それはシステム的に許容されないのである。

 どうしても新しくゲームを始めたければ、手動でセーブデータを削除するしかないが、セーブデータを一つしか持たせないことにこだわるとしても、ニューゲームさせたあとで上書きすればいいだけの話なのでまるで意図が分からない。単に無能なのであろう。

 余談になるが、このことはゲーム内での再キャラメイクが消費アイテム制で、かつこのアイテムが消費型DLCとして売られたこともあって物議を醸した。擁護するわけではないが、DLCを売るためにニューゲームの選択肢を削除したとは考えにくく(くだんのアイテムはゲーム内でそれほど苦労なく入手できる)、開発の妙な拘りによって生まれた不親切同士が偶然の悪魔合体を起こしてプレイヤーへの虐待と化しただけだと思われる。

 さらに余談になるが、前作からの仕様としてキャラクターの体格は性能に直結する仕様のため、キャラメイク次第で多少の有利不利は生じる。このことも火に油を注ぐ結果となった。だからそのこだわりを捨てろって。

粗すぎる詰み対策

 公平のために、ここで宿屋におけるオートセーブに触れておこう。本作では宿屋に宿泊した際にオートセーブされ、これは通常のセーブデータとは別枠になる(本稿では「宿屋セーブ」と呼ぶことにする)。つまり厳密には単一セーブ制ではなく、二セーブ制なのである。しかしこれは、残念ながらまともに機能しておらず、ちょうどよい所でのリカバリーは期待できない。

 理由としてはまず、本作では宿屋のある拠点自体が限られており、そこで過ごす時間は少なく、圧倒的な時間をフィールドでの探索に費やすことになる。宿屋の回復と同等以上の効果はフィールドに点在する野営地点で寝泊まりすることで得られるが、残念ながら野営での宿泊は宿屋のセーブの対象外である。このため、宿屋への宿泊はただでさえ期間が開きやすい。

 さらに、本作における宿屋の宿泊料金はかなり高めに設定されており、安い所でさえ安い消費アイテムの十倍以上(1000~2000G)はする。むろん、移動が不便な本作において回復のためにいちいち戦闘しながら宿賃の安い拠点に向かうのは本末転倒であり、これも宿屋から足が遠のく一因である。まとまった出費をして自宅を購入すればこうした悩みから解放されるが(それでも自宅のある拠点にわざわざ戻る手間はある)、自宅購入のためのクエストはある程度ゲームを進めないと出現しない。普通に売っとけよ……。

 こうした理由から、頻繁に宿屋でそれなりに痛い出費をする覚悟がなければ、宿屋セーブは数時間を巻き戻す選択肢になってしまいかねないため、よくて最終手段にしかなりえない。ちなみに宿屋セーブの真の恐ろしさは別の所にあるのだが、それについては後述する。

 セーブの話からはやや脱線するがついでに触れると、NPCの死亡についてもアイテムを使うことで蘇生は可能である。しかし、このアイテムがまた貴重な消費型であり、おいそれと手に入るものではない。しかもプレイヤーの復活にも使えるものなので、ゲーム初心者の場合、使い切ってしまう可能性も高い。

 このように、単一セーブによる弊害を防ぐための措置は一応講じられているのだが、いずれも開発の無駄なこだわりによって有効に機能しているとは言い難い。なんにせよ複数セーブ制にすればそれで済む話でしかないのが悲しい所である。

伝説のイベント「竜憑き」

 次に徐々に知名度が上がってきたゲーム史に残る極悪イベント「竜憑き」について述べる。これはざっくり説明すると、ポーンが発狂して言うことを聞かなくなり、病状が進行すると宿屋に泊ったタイミングで現地のNPCを皆殺しにするという仕様である。

結果が地獄

 いくつか問題があるのだが、まず結果の部分から述べよう。現地のNPCを皆殺しにするというのは、現地のNPCを皆殺しにするという意味である。例外はなく、メインクエストのキーパーソンであろうが、特に冒険に絡まずどうでもいい定型文しか吐かない老婆であろうが、分け隔てなく、マジでご丁寧に全員抹殺する。いちおう、店主など施設の管理NPCについては時間経過で復活するが、それ以外のNPCは死にっぱなしなので、彼らの絡むクエストは当然進行不能になる

 これが作中随一の大都市で起きた場合にどうなるのかは、想像に難くないだろう。いわゆるクソゲーを除けば、プレイヤーにこれほどのデメリットをもたらすイベントにはまずお目にかかれない。中学生がRPGツクールで開発した自作ゲームですら実装を躊躇うだろう。こんなものが令和のこの時代に、日本の流通品の中に平然と存在していることを思うと、筆者は皮肉とかでなく胸が熱くなる。こんな頭のおかしいゲームを作るやつらでも大手を振って生きていていいのだ。人生に何の悩みがあろう。いやあったわ、お前だよドラゴンズドグマ2。

回避が困難

 このイベントの凶悪さを補強するのは、回避が困難なところである。第一に気付きにくい。前述したように竜憑きになったポーンは言うことを聞かなくなるのだが、これが非常に分かりにくい。AIがお粗末なせいで、そもそもポーン共に言うことを聞くイメージはあまりない。暴走してんのが竜憑きなのかAIなのか分からんのである。次に、喋っている内容がいつもより好戦的になるのだが、「ヒャッハーッ! ゴブリン共を皆殺しにしてやるぜッ! 超気持ちイィーッ!」とか言ってくれるならともかく、いつも通り全部丁寧語なので、竜憑きというものがなければスルーしてしまいやすい。見た目の変化としては目が赤くなるのだが、今作ではキャラメイクの自由度が高く、もともと目が赤いキャラなぞザラにいるうえ、兜のバイザーを下ろしていてそもそも目の色など見えないキャラも多い。

 こうした気づきにくさに加え、竜憑きという事象によって上述したような壮絶な事態が招かれるとは普通想像せず、なんなら好奇心で進行させてしまう可能性すらある。プレイヤーと世界観との温度差が大きすぎるのである。

治療法が最悪

 最後に、解決する手段にも問題がある。竜憑きが雇用しているサブポーンならば解雇するだけで事は済むが、メインポーンが感染した場合、今のところロストさせる以外の解決策は見つかっていない。

 一番簡単な方法は、崖から海に投げ落とすことである。ロストするとメインポーンは復活時に竜憑きでなくなっているが、ロストしたことに変わりはないため前述したように傷は増える。ワクチンの痕みたいなもんだね! 竜に引き裂かれでもしたかのようなデカい傷だけどな! ちなみに傷を消す手段もちゃんと存在している。それは世界の果てにある温泉に連れて行くことだ。舐めてんのか?

そして牙を剥く刺客

 最後にオマケをつけくわえておこう。竜憑きの暴走イベントの条件は、竜憑きが進行しきった状態で宿屋に泊ることである。そう……もうお分かりだろう!!!

 本作のなんちゃって詰み防止機能である宿屋セーブはここで本領を発揮し、なんとNPCが全滅させられたところで渾身のセーブをキメるのである。とうぜん、ロードによるやり直しは不可能となる。さらに「周囲の罪なき人々は命を落としました 観察力と判断力があれば、対処できたかもしれません」などという煽りメッセージの表示も忘れない。これは、もう……。

 詰み防止とは何なのか。そんな哲学的な問いを投げかけてくるゲームは世界広しとはいえ本作だけであろう。いや本作以外にあってはならない。存在しないでくれ。切にそう願う。

 ここまで見てきたように、本作にはプレイヤーに対する虐待としか言いようのない仕様が無数に組み込まれている。それらは、一つ一つは小さな欠点に過ぎないが、互いに共鳴し、高め合うことでプレイヤーの精神に強烈なダメージを与える、いわばマイナスエネルギーの元気玉である。これほどの仕打ちを受けてなお本作を楽しむ筆者を、ある知人は「DV被害者」と呼んだ。

なぜドラゴンズドグマ2はクソゲーなのか

 筆者は本作をクソゲーだと断ずるが、本作はクソゲーにしては珍しく、完全に意図されて生み出されたクソゲーである。即ち、一般的にゲーム開発者は少なくとも自覚的にはクソゲーを作ろうとはしないものなのであるが、本作に限ってはこの事情は異なる。

 前作は同時代のオープンワールドRPGと比較しても、微妙という評価を免れないゲームであった。そして、そう断ぜられる理由は本作ほどではないが、本作と概ね似通っている。それは、プレイヤービリティというものを敢えて無視するかのごとき、過酷なゲームデザインによるものであった。

 たとえば、重量による厳しい持ち物制限。前作も本作も、キャラクターたちが持ち運べる重量はわずかであって、たとえば余分な装備などを持ち歩く余裕は無いと言ってよい。オープンワールドらしくフィールドの各所には素材の採集ポイントがあるし、敵を倒せばその素材もドロップする。しかしこうしたものを逐一拾っていくと、あっという間に重量制限を超過してしまい、ただでさえ低い移動速度がさらに落ち、酷い場合はジャンプやダッシュすらできなくなる。しかも肉や野菜は腐る。

 また、非戦闘時にも関わらず容赦なく消費されるスタミナ。そもそもダッシュしても大して速くはないが、ドラゴンズドグマシリーズは僅かな時間短縮も認めようとしない。フィールドは徒歩で鈍行するのが当然、そうとでも言いたいようなデザインだ。

 こうしたはっきり欠点と言って良い特徴は、何の改善もなく本作に引き継がれた。その意図の根底にあるのは、プレイヤー中心のゲーム開発に対する強い反発である。

プレイヤーを否定することで為される開拓

 これだけ書けば全くもって狂人の発想と言うしかないし、ぶっちゃけ筆者は普通に狂人の発想だとも思うのだが、実はこの発想そのものは必ずしも間違いと言いきれないところがある。

 RPGの面白さ、楽しみというものは、実のところかなり多くの要素を含みうるものである。そしてその中には、不便さと表裏一体の要素も存在する。たとえば、上で挙げた牛車や野営の襲撃である。旅の途中、不意に魔物に襲われて迎撃する。いかにもファンタジー物語の序章にありそうな展開で、そこからなにかドラマが展開しそうな予感がするではないか。

 しかし実際には、こうした要素を実装した作品は少なく、近年で大手の作品となると本作くらいしかないのではないかと思われる。その理由は簡単で、結局のところ単発のイベントとして実装しない限り、プレイヤーが期待するようなドラマにはつながって行かないからである。

 つまり、それっぽいだけで、別に物語の序章でも何でもなく、襲撃がありました、撃退しました、終わり。という起承転結すらないしょうもない一コマになってしまうということだ。

 となると、こういった要素がもたらすのは、実際には移動における不便さのみということになる。これが分かっているから、普通の開発者は実装を避けるのだ。

 ドラゴンズドグマシリーズは、こういった、普通のRPGが取りこぼしてしまうプリミティブな面白さを採り入れようと悪戦苦闘してきた印象がある。

 筆者だけかもしれないが、そこからは「苦しむプレイヤーがいくらいたってかまわない。俺たちで新しいRPGを生み出そう!」という、傲慢とすら言える確かな気概が感じられる。

 筆者は本作をまぎれもないクソゲーだと思っている。プレイヤーを踏みにじり、その努力を無に帰するような本作は、そう断ぜられて当然だし、批判を受けるべき作品であるのは間違いない。

 しかし、本作がその狂気的ともいえる情熱のために、他の誰も作らないような作品に仕上がっているのも、また事実である。令和の今日、誰がファストトラベルに制限をかけようか。誰が、NPCを全滅させるような理不尽なイベントを作ろうか。

 この一点が、筆者が本作を嫌いになれない唯一にして極めて大きなところなのである。

 そしてこの道は、実は「死にゲー」と呼ばれる作品群が新天地を切り開いていったのとよく似ている。ジャンルが確立するまで、誰もやたらに高難易度のゲームが良いものになるだろうとは考えていなかったのである。(本作の開発者もこれを意識していることは、冒頭にあげたインタビューでも語られている)

高く掲げた理想と、低く堕ちた現実

 実のところ、皮肉や嫌味ではなく素直な意味で、筆者は本作をかなり楽しんで遊んでいる。しかし畢竟、プレイヤーがその気になって全力を尽くせば、楽しめないゲームと言うものは存在しない。ほんの子供でさえ、何の意味もない棒きれを人や、乗り物や、建物や動物に見立てて遊ぶことができるのである。

 だからこそ、万人が楽しめる快適性や、(ここが本作においてもっとも罪深いポイントなのだが)ナラティブに欠けた作品は称賛されるべきではない。

 たとえば本作は、水に入って泳ぐことが出来ない。泳ぎが必要な深さの水深に入ると、「ヒュージブル」という触手の怪物に襲われ、ただちにゲームオーバーになってしまうからである。これは前作でも同様であった。

 筆者は本作でも健在のヒュージブルを見た時、ファンとして心底失望した。ヒュージブルは、シリーズの拙いナラティブの象徴と言える存在だったからである。

 なぜ水に入れないのか。それは水中に無敵の怪物がいるからだ。それは海にも川にも、ある程度深い所ならどこにでもいて、どんなに強い冒険者でも怪物でも問答無用で溺死させる。しかし、いざ溺れるまではその姿は影も形も見えはしない。

 一体なぜ? そんなに圧倒的な怪物ならば、地上に出てきて制覇したっていいではないか。水中に蠢いているというなら、水上から観察できたっていい。なぜそうなっていない?

 要するに設定として不自然なのである。実のところ、泳げない最大の理由は、水中を泳ぐモーションや移動の自由度によって上がるレベルデザインのコストを掛けたくなかったり、より本作らしいところでは、橋を探して川を渡るという体験を実装したかったから、という開発側の事情に他ならない。

 本作が掲げる理想を素直に信じるなら、川を泳いで渡ることを試みられても良いはずである。重い鎧を着ていると沈んでしまったり、身体が冷えて渡り切る前に溺れてしまったりするかもしれないが、これらは不便ではあるがリアルなファンタジー体験として許容されるべきではないか。

 こうしたことを恣意的に排除しながら、自分たちの事情で実装できる要素についてはプレイヤーを無視してこだわる。しかも排除につける理屈があまりにいい加減である。自分たちしか見ないのか、プレイヤーに目線を送るのか。いずれにしても中途半端としか言いようのない態度である。

 本作は、プレイヤーにへつらうことをやめ、叩かれて当然の前作の路線を敢えて継承しながら、その中途半端さを改めることもなかったという点で、正しくクソゲーである。本当にファストトラベルが便利すぎて問題だというなら、消費アイテムや牛車によるファストトラベルなど実装すべきではなかった。プレイヤーに迎合することからも、茨の道を行くことからも逃げてしまった作品、それがドラゴンズドグマなのだ。

終わりに

 ここまで触れてこなかったが、本作には素直に認めるべき美点も多い。モンスターのグラフィックやモーション、戦闘の時の操作の楽しさ、贋作や他国へ不法入国するといった「ズルをしている」楽しさ、詳細で緻密なキャラメイクと、それを共有できるポーンシステム。アクションの派手さも老舗ならではの貫禄だし、個性的な数々のジョブによって、キャラクターの育成も存分に楽しめる。

 こうした要素もあるため、実のところ、とことんロールプレイをして本作の仕様に付き合ってやるつもりでいけば、本作は決して楽しめないゲームではない。

 特に不足しているナラティブを自分で補ってやれば、本作の欠陥仕様の一つ一つが、それなりに「遊べる」不便さであることは確かだと思えてくる。(たとえば馬に乗ったり、あまり必死に走ってはいけない修行をしている奴が主人公だとロールプレイするなど)

 しかしながら、本作はもっと納得のゆく仕様で、もっと気軽に楽しめるものにしようと思えば出来たはずである。便利にしろと言っているわけではない。なんならもっと不便でもいい。しかしその不便さに意味を見出すことを、あまりにプレイヤーに丸投げにしていないだろうか。異世界に放り込まれて右も左も分からない覚者たちに、「これが当然」という乱暴な態度をとってはいないだろうか。あれほど流通している刹那の秘石(ファストトラベルアイテム)が値崩れもせず、10000Gもするのも、各地の宿屋がたった一泊するだけでRPGとして法外な値段を請求してくるのも、もっと意味づけが出来たはずである。それが出来ていないから、獣人の国でいきなり宿賃に10000Gを請求されても、それがボッたくられているのだとプレイヤーは咄嗟に気付けなくなってしまう。これが没入感の阻害でなくて、何だというのだろうか。

 本作は、誠に遺憾ながら、そのコンセプトから期待される水準を満たしているとはいえない。それどころか、その遥か手前にいると言える。

 本作を心から楽しんでいる少数派のプレイヤーだからこそ声を大にして言いたい。

 甘えんな。ちゃんと作れ。

*1:本作のプレイヤーキャラのこと

*2:コンパニオンキャラ。忠実なアンドロイドみたいな奴らで、一応微妙に個性はある

*3:最初にキャラメイクで作る、主人公の相棒枠のポーン

*4:ポーンを雇える謎の石。各拠点とフィールドに散在している

パルワールドはパクリゲーか?

※以下の記事は執筆中で、明日以降内容が変わると思いますが、普通に忘れて放置する可能性もあるので一応上げておきます。

※(2024/01/23 18時追記)よく見たら社名はポケットピアではなくポケットペアでした。社名を間違えるのは本当にリスペクトの足りない行為だと思いますので、お詫びして訂正します。ポケットペアの皆さん、ごめんなさい。

※割と普通に読めるみたいで、編集しなくても良さそうなのでもうこれで完成ということにします。

 

 先日発売された『パルワールド』。Steamで驚異的な売り上げを記録している一方、ポケモンのパクリかどうかみたいな話が思った以上に話題になっているので、既プレイ者として少々語ろうと思う。

 記事の構成としては、概ね下記の目次の通りとなる。

 パルワールドを「パクリゲー」と言えるかどうかは、ゲームシステムとアートスタイルのどちらに重きを置いて評価するかによる部分があるので、出来れば「ゲームシステムの完成度」と「アートスタイルの類似点」については、どちらも触れていってほしいところである。

 なお、この記事では主に、パルワールドとポケモンシリーズの類似点について取り上げ、たとえば『ゼルダの伝説』シリーズとの類似点などについては、議論の対象外とする。同様の議論の反復となるためである。

話の前提

 このゲームを開発したポケットペアはインディーズゲーム会社であり、前作に当たる『クラフトピア』もパロディ満載の作風であった。

 上記リンクにある同作の動画を見て頂けば分かると思うが、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』を始めとするパロディ、敢えて悪く言えば「パクリ」が多く見られる。

Steamストアページより

 クラフトピアが特徴的であったのは、こうしたパロディがゲーム中の至る所で臆面もなく登場することで、良く言えば素朴な身内感、悪く言えば無責任な鈍感さが漂っていた。
 「なるべくオリジナリティを出していこう」といった創作者に普遍的な意思が、クラフトピアからはあまり感じられなかった。誰よりも開発者たち自身が、パッチワーク的に構成された作品に満足している感があり、要するに、ノリが同人サークル的だったのだ。

ゲームシステムの完成度

 周知のとおり、ヒット作のシステムを踏襲することはゲーム業界の伝統であり、特許によってガチガチに固められてでもいない限り、非難されることはない。

 パルワールドはいくつかの作品の要素が複合したものだとよく指摘され、それは概ね正しい。1つ付け加えるとするなら、パルワールドはその上で、かなり高いクオリティを実現しているということだ。

 どのあたりが高品質なのかを語る前に、まずは参考にしたと思われる作品をざっと挙げてみよう。

 ジャンル的にも内容的にも最も近いと思われるのは、実のところポケモンではなく『ARK』シリーズだろう。

『ARK: Survival Ascended』。Steamストアページより。

 同シリーズはごく簡単にいえば恐竜をテイム(手懐けること)して遊ぶサバイバルクラフトゲームで、本作が直接参考にしたであろう作品のひとつだ。

 ポケモンシリーズで言えば、『Pokémon LEGENDS アルセウス』が影響元にあたるだろうし、マップの構築の点で言えば『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』や『ELDENRING』などが挙げられる。そして自動化の元祖といえばやはり『Factorio』だろう。

www.pokemon.co.jp

www.nintendo.co.jp

www.eldenring.jp

store.steampowered.com

 特筆すべきなのは、パルワールドは、これらの要素を組み合わせるのに際して、しっかりとした創造性を発揮しているということだ。

 例えば、拠点を建設して生産を自動化していくのは『Factorio』や前作『クラフトピア』と同じだが、本作ではテイムしたパル(パルワールドにおけるモンスターの総称)を労働力として使用するという特徴がある。

 パルたちは自身の気分によって(基本はかなりワーカホリック気味ではあるが)自律的に行動する。プレイフィールとしてはやや『RimWorld』に近い。

固有のモーションで働くパルたち。空腹状態のパルは、作業を中断して食事をとりにいく。

 可愛らしいキャラクターたちが、それぞれに固有の動きで役割を果たし、協力してくれるというのは、かなりリッチで、そしてユニークな体験だ。

 マップにはオープンワールドを採用しており、細かい部分には粗もあるものの、風景的にも魅力的な部分が多い。

 特徴的なロケーションにはちゃんと「ご褒美」も置いてあり、ただ広いだけの荒野とは違う。

 それぞれの地域ごとに生息するパルが異なるため、風景的にパッとしないところでも目が離せない楽しさもある。

夕暮れの風景。遠くに見える山脈にもロケーションがある。大樹も気になるところ。

 ポケモンに関して言うならば、ダメージを与えたり、状態異常にして弱らせたモンスターに、ボール型の捕獲装置を投げて捕まえる、という流れはそのまま引き継いでいる。

 基本的には捕まえれば捕まえるほどレベルが上がり、レベルが上がれば強くなるだけでなくクラフトできるものも増えるので、とにかくパルを捕獲しまくることにモチベーションが刺激されるように設計されている。

 同じ種類のパルを捕まえたとき、最初の10体までは豊富な経験値を貰えるのも、なかなかよい塩梅をしているといえよう。

 戦闘に関してはまあ、割と凡庸なシューターだ。パルと共闘できる楽しさはあるという程度である。

 建築モードの操作性の悪さなど、気になる部分ももちろんあるが、それを補ってあまりあるほど、パルワールドのゲーム部分はしっかりしている。正直、これがアーリーアクセスだとは信じられないほどだ。

 こうした魅力的な要素の数々が、見た目通りの完成度で実装されているのは、ひとえにポケットペアが既存作品の長所や短所を入念に研究しているからに他ならない。

 こうした研究の上で、それぞれの作品の要素がほどよく調和するようにゲームを構成するのには大変な困難を伴うので、ポケットペアは今回、かなりの生みの苦しみを味わってゲームを開発したはずである。これを単なる「パクリゲー」として片づけてしまうのは、あまりに勿体ないだろう。

 さらに言えば、これらの要素は実のところ、ポケモンシリーズが望まれながらも実現できていないものでもあり、かなりの需要がある。

 パルワールドがこれだけのヒットを記録しているのには、「ユーザーの求める作品をしっかり打ち出した」こともかなり大きいのだ。

 ちなみに、パルワールドは露悪的な部分がクローズアップされがちだが、パルたちに残虐行為を働くのは別に必須ではないし、ゲーム中に推奨されるようなこともない。

 やり込みをしたり、PvPが実装されればまた別かもしれないが、どちらかといえばパルたちを労り、仲間として扱うほうが攻略上も有利に思える。

 銃を使ってパルと戦うのすら、不快なら戦いは仲間のパルに任せてしまって構わない。ちなみに倒したパルは死亡しているわけではないようで、よく見ると気絶していることが分かる。

温泉でくつろぐパル。温泉は必須の施設ではないがあった方が生産効率も上がる。

 このように、万人受けするようシステムを丁寧にアレンジしている本作は、少なくともゲームシステムの点ではパクリゲーの烙印を押されるべきではない。

アートスタイルの類似点

 今回の『パルワールド』が発表されたときに、誰もが思ったのが、「ポケモンに似ている」だというのはほぼ間違いない。パルたちはポケモンと類似しない部分を探す方が難しいほど、デザイン的に酷似している。

 しかし、具体的にどの部分が似ているのかについては、意外に細かく指摘しているものは少ないため、すでに周知のところではあるが、ここでもう一度触れておきたい。

 全般的には、ポケモン的なパーツ表現の多用が挙げられる。丸枠の窓のような形状、あるいは三角形の目や、身体のマットな質感などはポケモンの共通項的な表現だ。より露骨なものとしては、体型、細かなパーツ、配色などが「複合的に」類似しているものがあり、このあたりはオリジナルなデザインというよりも既存のアレンジに近い。

 以下に2つほど例を挙げる。これよりも似ている例なども普通にあるが、画像の調達が面倒だったので手に入りやすいものを提示する。

 気になる人は検索してみてほしい。

端的な例。

もう一つの例。なお画像はいずれも公式サイトのものを、比較しやすく加工してある。

 デザインの類似性をどこまで認めるか、という事柄については主観の部分が大きく、一概に言えない部分はある。しかし、上述した部分に関しては、概ね客観的に認め得るであろう。

 ちなみに本作の3Dモデルは出来がよく、またモーションも豊富だ。「火を使う」モーションには種類ごとに固有のものが使われている。たとえば下の画像のように。

火を使った調理をするパル。

炉に火を入れるパル。

 些細なことではあるが、こうした固有のモーションは「このパルだったらどんな仕事のやり方をするんだろう」という好奇心を刺激するため、プレイのモチベーションを大いに高めてくれる。

 作成に工数もかかるため、本来ならば手放しに称賛されるべきなのだが、モーションを与えられているパルたちはだいたい何かしらのポケモンに似ている。

 そして、似ているということそれ自体がどうというよりも、「似せ方に元ネタへのリスペクトを感じない」というのが問題になってくるのだ。

リスペクトとは何なのか

 一般に、模倣によって利益を生むことは非難される傾向にある。
 新たな概念の創造には多大な苦労(コスト)を伴うが、これに対し模倣は比較的簡単なので、先行者の利益がある程度保護されなければ公平性を欠くし、さもなければ、いずれは誰も創造などしなくなってしまうからである。
 しかし、そうは言っても、ひたすら先行者のみを優遇するのでは、世の中は回らない。人類の圧倒的多数は後発者であり、そもそも創造は既存パターンの組み合わせに過ぎず、厳密には常に何かしらの「元ネタ」が存在してしまうからである。

 こうした事情のため、我々の社会は模倣を正当化するための論理をいくつか発明することになった。

 もっとも分かりやすく正当なのは、先行者の許可を得ることだ。しかし無許可の模倣であっても許される論理が存在する。それが、模倣者が先行者に敬意を払っているという状態、つまり「リスペクト」の概念である。

 リスペクトについて論ずる前にまず押さえておきたいことは、究極的にこれは内心の問題であるため、証明のしようがないということである。リスペクトは常に解釈の問題であり、人によってかなりの幅がある。

 ただし、幅があるからといって、それが実質的に無意味なものであるとか、実態のないものだというわけではない。

 「ゲーム業界はパクリパクられの歴史だから問題ない」などという意見は、この点で全く的を外している。

 ある模倣者にリスペクトがないと解釈された時、その模倣者は必ず悪印象を得るのであって、それが今まさに起きていることなのだ。

 ではなぜ、パルワールドはリスペクトのない模倣者とみなされているのだろうか。その理由として、まず似ている部分の本体がアートスタイルに属することが挙げられる。

 つまり、見た目が似すぎているのである。

 一般に、ゲームというものはシステムや遊びの部分が中身であり、グラフィックはガワだとみなされる事が多い。このために、「グラフィックを差し替えるのは簡単」という固定観念が確立しているのである。

 つまり、模倣する必要がない部分まで無思慮に模倣しているように見えてしまうわけで、これが作品への理解が浅い(=愛着や敬意も薄い)と解釈されうる。ゆえに、アートスタイルが不必要に似通った作品は「パクリ」と見なされやすいのである。

 逆に言えば、ゲーム内容にほとんど差がなくとも、見た目が大きく異なれば、「最低限の差別化はしている」として、ある程度のリスペクトはあると判断されることは多い。これについては「狩りゲー(モンスターハンターシリーズ)」や「ソウルライク(ソウルシリーズ)」など、特定作品を元ネタにした作品群を見ればよく分かるだろう。

 さらに、実はパルワールドにおいては、アートスタイルがポケモンに類似しているべき理由が別にあるのだが、それは本作のリスペクトを補強するどころか、むしろより「パクリ」と非難されるべき理由になってしまっているので、次の項目ではそれについて説明する。

類似している理由

 上述したように、パルワールドが批判にさらされるのは、要するにポケモンに似すぎているからである。なぜ、もっと似ていない姿にしようとせず、わざわざ「法務部のレビュー」が必要なデザインに仕上げたのだろうか。
 この疑問の答えは、恐らく大きく二つ存在する。

マーケティング上の戦略

 第一に、「ポケモンと尋常ではなく似ている」といった事実自体が、マーケティング上、大きな効果を生むからである。「悪評は無名に勝る」という言葉があるが、どんなに優れた作品でも、まずその存在を周知されなければ売り上げは見込めない。
 特にSNSが普及し、ユーザー自らが情報を発信し合うようになった現代では、何よりもまず「拡散したい」と思わせる情報こそが有効である。この点でいえば、「こんなにポケモンと似てる! 酷いと思いませんか!?」という発信は、ポケモンが極めて高いブランド力を持つIPであることを思えば、「パルワールドおもしろそ~!」といったポジティブなメッセージと同等か、下手をすればそれ以上の拡散力を持つ。
 いわゆる「炎上商法」と似た戦略だが、短期的には確かに有効である。ただしわざと炎上するということは、それだけ人の神経を逆なでしているということであり、長期的(つまり次回作など)にはマイナスの結果を招きうる。

開発コストの削減

 第二に、ポケモンが持つ高いデザイン力に依存することで、コストを削減できるからというのもある。パルワールドには実に100種類以上ものパルが登場するが、これだけのデザインを行うのには、通常はかなりの困難を伴う。すでに無数のサンプルがあるうえに、それぞれの質が担保されているポケモンを参考にすれば、デザインは遥かに容易かつ迅速になるだろう。
 パルワールドは3Dアクションゲームであり、パルそれぞれに固有の3Dモデルとモーションがあることを考えると、必要な工数は前作クラフトピアの比ではない。このことは他ならぬ開発者自身が言及している。
 実際にプレイしてみると分かるが、モーションは一つ一つ丁寧に作りこまれており、この点で手を抜いていないことは明らかだ。ただ、ここまでモーションに注力できたのは、デザインの草稿段階でポケモンを最大限に利用したからという前提があるのは言うまでもない。
 これはポケモンが生み出される際のデザイン上のコストを一部スキップしたということであり、つまりポケモンに「世話になった」状態だということを意味する。だからこそ、デザインの寄せ方にリスペクトがないという事実が非難の対象となりうるわけだ。

ポケットペアというゲーム会社

 これら二つの理由には、共通した背景がある。それは、ポケットペアがまだ小さなゲーム会社であり、独力でゲームソフト市場を立ち回ってゆけるだけの実力がないということだ。
 たとえばポケモンとは似ても似つかぬ、オリジナルのモンスターだったとしよう。恐らくアートスタイルがどんなに優れていても、ゲームの中身の完成度が高くても、ポケットペアがネット以外に大した宣伝媒体を持っていない以上、話題性はせいぜいクラフトピア+αに留まる程度だったであろう。
 これでもインディーズゲームとしてはかなり立派な水準ではあるが、前作クラフトピアの出来が最終的に今一つであることを考えると、どこまで売り上げがあるかは怪しいところで、莫大な開発費を掛けていたことを考えるとかなり厳しいものがある。
 開発力の点でも、ゼロからモンスターデザインを開始してモーションも創作して、という多大なコストを負担できるだけのものは、恐らくポケットペアにはまだない。時間も人も経験も足りないはずで、要するにポケモンのような3Dゲームを作ろうと思うこと自体が、まだ分不相応なのである。
 こうした「無理」を通して開発されたのがパルワールドなのである。無理を通しているわけであるから、とうぜん道理は引っ込むことになる。そして今回引っ込まされたその道理というのは、先行者へのリスペクトであり、さらに言うなら職業倫理であった。

終わりに

 今回の問題はゲーム界隈においてはかなり大きな話題になっているが、よく見るのはアートスタイルの類似性に対する批判に、ゲームシステムの類似性に対する擁護がぶつかり合っている局面で、ユーザー自身も混乱していることが分かる。
 ゲームシステムの類似性については、上記したように実際の内容からして問題のあるものとは思えないし、法的な問題に発展しないよう、アートスタイルでも配慮が行われているのは間違いない。
 しかし、だからといってこのアートスタイルの酷似ぶりは、全く擁護できるものではない。似せている理由に、どこまでいってもポケットペアの都合しかなく、自らの利益のために他社の努力を蔑ろにする姿勢は、まったく唾棄すべきものである。
 パルワールドの売り上げはかなり好調なので、もしかすると続編を作ろうという話になるかもしれない。しかし、開発者自身が語ったような、今回のような「奇跡」が次も起こるとは限らない。ギリギリを攻めすぎれば、今度こそ法的な問題を起こしてしまうリスクもある。
 だからこそポケットペアは自らも有力なIPを持つことを望むであろうし、誰にとってもそれが望ましい。その時のためにも、今回のような手法はこれを最後にすべきである。これだけのスマッシュヒットを飛ばした会社は、もはや弱小のインディーズではない。確固たるブランドを持つ開発会社として、今後は品格のある行いを求めたいところだ。

(ネタバレあり)『ゴジラ-1.0』鑑賞直後の感想~悪いところ~

 前半の記事では良いところについて書いた。

(ネタバレあり)『ゴジラ-1.0』鑑賞直後の感想~良いところ~ - 雑炊閣下備忘録

 後半となるこの記事では、この映画の悪いところについて書いていこうと思う。

 

良いところ

  1. ゴジラの描写
  2. ゴジラ対策のアイデア
  3. 終戦直後という時代背景の活かし方
  4. 音楽の使い方

悪いところ

  1. 人間ドラマパートのリアリティの低さ
  2. 台詞のオリジナリティのなさ
  3. 時代背景による制約
  4. 無用のファンサービス

 

悪いところ

1.人間ドラマパートのリアリティの低さ

 本作最大の欠点。怪獣映画における人間パートはそもそも見られたものではない事が多いのだが、前半の記事で述べたように、本作は「これまでの怪獣映画の構図を超克する」ということを(恐らく)意図している。そのため、人間ドラマパートの不出来が過去作以上に響いてしまうのだ。

 リアリティのない部分をいくつか具体的に挙げるが、これはもう冒頭から酷いもので、「いや主人公が撃ちそうにないなら整備士でもなんでも一か八か撃ちにいけよ」と思ったし、少し進んで「いくらなんでも情報統制でゴジラのことを一切知らせないのは不自然だろ」が続き、「せめて自分の身内には教えて避難させとけよ」が繋がっていく。さらに「あの高さだったら水に落ちても良くて大怪我だろ」「逃げ惑う群衆の中でよく会えたな」「なんぼ理由があっても予備の整備士くらい探しとけ」などなど、文字通り枚挙にいとまがない

 細かい問題はともかく、身内にゴジラの危険を知らせるか否かというのは生死に直結する問題であり、ドラマのおおまかな流れにもかなり強く影響してくる部分なので、これだけでもなんとか言い訳を用意して欲しかった部分である。

 「なんで嫁に貰ってやらなかったんだ!」という台詞などは、てっきり「なんで避難させなかったんだ!」と言い出すかと思っていたので真剣に脱力した。こんなことがあっていいのだろうか。

2.台詞のオリジナリティのなさ

 本作にはどこかで聞いたような台詞が多すぎる。時代背景的に、本作は台詞一つとっても細心の注意を要するべき場面が多い。「俺の戦争が終わっていない」などと言っても、離島にいきなり恐竜みたいなやつが現れて駐在部隊を壊滅させた、などという終わり方は、そもそも戦争とかそういう問題ではないのである。

 他にも「この国は変わらん」「お得意の情報統制だ」などと言う割に、なんだかんだ軍艦で働く人々を見て「良い顔をしてる」などと言うし、お前の戦争を続けたいのか終わらせたいのかどっちなんだという感じがしてくる。

 このあたりの台詞の陳腐さは、時代の描写の不足にも繋がっており、かなり残念な部分である。

3.時代背景による制約

 本作は官・軍主導の「ヤシオリ作戦」(『シン・ゴジラ』)に対して民間主導の「ワダツミ作戦」を描く意図で、終戦直後に舞台背景を設定したと思われる。(詳しくは前半の記事を参照)

 しかし如何せん、この時代はそれそのものが重すぎる。国家が総力戦に敗れ、複数の主要都市が焼け野原になった時代というものは、あらゆる意味で余裕がなく、本来ゴジラのごときフィクションが介在する余地を持たない。作れるとしても「戦後の復興物語」とか「そこで暮らす任侠の物語」くらいしかないのである。

 それを強引にゴジラ映画として成立させようとするので、色んなところに無理が生じている。その一例が、異様に低いゴジラの耐久力である。この時代の日本で倒せるようにするにはこういう設定にする他ないが、この結果「米軍が総攻撃すればたぶん普通に倒せる」というエメリッヒ版ゴジラみたいなパワーバランスになってしまった。

 もちろん設定のあり方としてはこれでも良いのだが、このために米軍に参戦してもらうわけには行かなくなり(話が終わってしまうので)、GHQ統治下の日本において明らかに軍事的支援が必要とされる局面において米軍が動かないという不自然極まりない状況になってしまった。いくらソビエトの動きを警戒するといっても、数万人におよぶ犠牲者を出した後のゴジラ対策になんの干渉もしてこないというのは流石に納得できない。

 『シン・ゴジラ』で言及されたように、海を渡るゴジラは当然に米国に上陸する可能性もあるわけで、米軍もいくつもの軍艦を沈められている以上、対岸の火事と見ていられるわけはないのだから。

 こうした設定の玉突き事故の他に、時代特有の市民感情、何を描くにしてもにじみ出てきてしまう匂いのようなものも、本作にとっては邪魔になってしまっている。

 例えば、人々の間には実際に空襲で街を焼いた米軍に対する憎しみなどもあって然るべき時代であるが、そんなややこしいものはこの映画には登場しない。そういうことがやりたいわけでないからである。

 しかしさすがに敗戦について誰もノーコメントというわけにもいかないので、取ってつけたような愚痴台詞(「この国は変わらん」みたいなやつ)だけが残るのである。うーん……。

 このように、本作の背景設定は怪獣映画を描くのに適したものとはいえず、むしろ多分に全体の負荷を増す要因になってしまっているといえる。

 せめて台詞回しが秀逸であれば、まだ目につかず流せたかもしれないのだが……

4.無用のファンサービス

 ここまでは包括的に語ってきたが、この項目では一点に絞った話をする。

 それはまあつまり、誰もが思ったであろう「いや絶対死んでたよね?」のやつである

 ラストシーンで首筋に映っていた、ゴジラの背びれを思わせる黒いシミ。あれの意味するところはシリーズファン(特にVS)にはほぼ明白で、要するにG細胞である。

dic.pixiv.ne

 いやもうマジで、G細胞以外の何物でもないし他に解釈のしようがなくてビビっている

 忙しい人のために簡単に説明すると、G細胞とは平成VSシリーズで登場したゴジラの細胞のことで、めっちゃ生命力が強いことが特徴である。

 どれくらい生命力が強いかというと、これとバラとヒトの細胞が合体すると、ビオランテが生まれる

dic.pixiv.net

 さらに『ゴジラvsデストロイア』では、体を両断されても刃が体を通り抜ける前に再生するので無傷なように見えるという出鱈目な増殖能力まで披露していた。

 というわけで、だから助かったのである。より正確に言うなら、たぶん衝撃波で粉砕されているが、そのあと爆縮やらなんやかんやで肉片がゴジラの細胞に触れて生き返ったのであろう。魔人ブウかよ

 お話として浜辺美波は死んでたほうが絶対に綺麗に終わっていただろとかそういうことはこの際わきに置くとして、ご都合主義で生きてるなら生きてるで、なんでちょっと不穏にするんだというのがどうしても頭から離れない。

 この描写の意味するところはただ一つ、沢口靖子浜辺美波になったバージョンのビオランテが生まれるかもしれないということなのだが、これで喜ぶやつが一体どこの世界にいるのか。ファンサービスにしてももうちょっとやり方ってものがあるだろということである。

 長々と書いたが、ぶっちゃけラストシーンのツッコミで細かいところは全部頭から吹っ飛んでしまっているので、そういう意味では天才の所業と言えるかもしれない。

 

 以上、鑑賞直後の感想である。

 皆も見よう、『ゴジラ-1.0』!

(ネタバレあり)『ゴジラ-1.0』鑑賞直後の感想~良いところ~

 さきほど観てきたので、語っていく。

 全体的な評価としてはまあまあといったところ。点数にすると68/100だろう。

 良いところと悪いところが素人目にもかなりはっきりしている作品で、悪いところは逆になんでこれが良いと思ったのか不思議になるくらいである。

 この記事ではよくある感想ブログの構成にのっとり、良いところと悪いところを順に挙げて解説していく。

 記事が長くなったので、今回は良いところのみ。

↓後編

(ネタバレあり)『ゴジラ-1.0』鑑賞直後の感想~悪いところ~ - 雑炊閣下備忘録

 

良いところ

  1. ゴジラの描写
  2. ゴジラ対策のアイデア
  3. 終戦直後という時代背景の活かし方
  4. 音楽の使い方

悪いところ

  1. 人間ドラマパートのリアリティの低さ
  2. 台詞のオリジナリティのなさ
  3. 時代背景による制約
  4. 無用のファンサービス

 

良いところ

1.ゴジラの描写

CG

 今回のゴジラは『シン・ゴジラ』以降の潮流を踏襲し、完全なCG怪獣となっている。海で登場するシーンが多いため、下半身は隠れがちだが、その代わり日中のシーンが多く、ゴジラの姿を闇で誤魔化さず表現している点はかなり評価できる。

デザイン

 おそらく原爆の被害者をイメージしたであろう、焼け爛れたような表皮の質感、平成ゴジラの意匠に倣いつつも、より凶悪になった面構え、それなりに視線を追える目など、大きく逸脱はせず令和のゴジラを描き出しており、『シン・ゴジラ』の次に公開された実写作品として理想的な塩梅といえる。

アクション

 肉弾戦では噛みつきと尻尾攻撃くらいしか使わず、もう少し腕を使ってもよい感はあった。明らかに沖にいるのに海面から上半身だけを出している時、ゴジラの下半身はどうなっているのかというのは長年の疑問だったが、これが描写されたのは今回が初めてかもしれない。

ダメージ表現

 今回のゴジラはかなり脆く、その代わりに凄まじい再生速度が強調されている。恐らく防御力の低さではエメリッヒ版ゴジラに次ぎ、おおよそ平成ガメラ程度だといえば、特撮ファンには伝わるだろうか。時代背景的にこのくらいでなくては倒しようがないという作劇上の事情がちらついたのは少々残念だったが、まあこれはこれでありだろう。

熱線

 ゴジラの熱線シーンは、チャージ描写、発射描写、効果描写の3つからなる表現なわけだが、ゴジラはデザインの伝統がかなり強めのキャラクターなので、使える小道具は限られている。熱線は近年のゴジラ映画における演出家の腕の見せ所といえよう。

 『シン・ゴジラ』の熱線シーンが画期的だったのは、ゴジラの顎が展開し、熱線が細い線状で。甲高い異音が鳴るというお約束をいくつもぶち破った上に宮崎アニメ(というか庵野のレーザー)の系譜をかなり強く感じさせる描写だったからで、それに比べると本作の遊びは比較的おとなしい。

 しかし、背びれが尻尾の方から順に発光しつつ飛び出し、制御棒めいて再度挿入されることで熱線のトリガーが引かれるというアイデアは、まだおとなしかったハリウッド版を日本風に派手にしたものになっていて、恐らく『シン・ゴジラ』がなければかなり斬新な描写と評価されていたであろう。効果としてもしばらく吐き続ける水流様の描写ではなく、一閃したのちにキノコ雲があがる爆発型(パルス型)なのはかなり珍しい。類似の表現としては『GMK』の一発目があるが、あれはその後のシーンで従来の熱線に近い描写がなされるので、純粋な爆発型の熱線は今作が初めてなのではないだろうか。

2.ゴジラ対策のアイデア

SF的考察

 ゴジラといえばオキシジェン・デストロイヤーやら抗核バクテリアやらの特別なアイテムがなければ倒すことはおろか弱体化させることもできないのがセオリーだが、今回のゴジラの倒し方は、簡単に言えば深海の水圧を利用して圧殺するというもので、いかなる超兵器にも、突飛な推測にも頼らない現実的なものとなっている。リアリティに定評のある『シン・ゴジラ』でも、結局のところゴジラが血液凝固剤で凍結する理由は「ゴジラの体にはスクラム機能があるに違いない」という要は単なる推測によるものだったので、今作のゴジラ対策はそれらから頭一つ抜けて現実的であると言って良いと思う。(『シン・ゴジラ』では他にも遺伝子に関する発言などに瑕疵がある。今作では時代背景的にゴジラの生態について大した分析が出来ていないが、これがかえって余計な言及をしないことに繋がっている)

民間主導のゴジラ対策

 これは『シン・ゴジラ』のカウンターパート的なものとして本作を位置づける意図があったものと思うが、ゴジラ映画として極めて稀なことに、今作のゴジラ対策は最終的に民間主導で行われる。構成員はほぼ元軍人で、使う装備もだいたい旧軍由来なので、実質的には軍主導といえなくもないのだが、民間ならではのオープンな空気が漂っていることは特筆すべきであろう。

 恐らくだが、本作のコアとなるのはこの部分であって、終戦後間もない時期という時代設定などは、このために存在するもののような気がしている。

 これは「官・軍の対ゴジラ作戦と足元で逃げ惑う民間人」という従来の怪獣映画の構図を超克しようという試みと思われ、意図としてはかなり高く評価できる。「意図としては」だが。

舞台を海の上にするという試み

 これまでのゴジラ映画では、大抵の場合、ゴジラに対する迎撃は彼が上陸してから本格化する傾向があった。もちろん軍艦をもって海上で迎撃に当たった例はいくつもあるが、ほとんど瞬殺されるのであまり意味のあるシーンとは言い難かったのである。

 海上にはゴジラの巨大さを実感させうる比較対象としての建物や地形が存在しないのが、この理由であろう。

 しかし本作ではこの伝統をやぶり、決戦場を海上に設定している。陸上でゴジラを不用意に刺激すればどうなるかを端的に表現したのが、本作の銀座の熱線シーンなわけで、被害をごく少なくできる海上で戦うというのはとても合理的な思考といえる。

 実際に今作は軍艦とゴジラがかなり距離を置いた状態で物語が展開するが、それでもしっかり巨大感があるのはひとえにCG技術の進歩の賜物といえよう。

3.終戦直後という時代背景の活かし方

 これはここまでですでにある程度語っているので手短にしておくが、要するに人間ドラマパートの登場人物が、観客に理解しやすい卑近なテーマを表現しつつ、ゴジラ対策の当事者となる為には、官・軍が主導する体制が整っていてはならない、ということであろう。

 戦前なら「旧日本軍VSゴジラ」になるし、戦後もう少し時間が立てば『シン・ゴジラ』の焼き直しとなる。となれば、もはや終戦直後の焼け野原以外に選択肢はない。そのために、米軍にもちょっと強引に不干渉を決め込んでもらったわけである。

4.音楽の使い方

 本作は、初代以外の全ゴジラ映画を見わたしても稀な、「”いわゆるゴジラのマーチ”を正しく使用しているゴジラ映画」である。

 初代『ゴジラ』を鑑賞すれば一目瞭然だが、もともとあの勇壮なテーマは自衛隊の活躍シーンで流れるものであり、有名な伊福部マーチと双璧をなす「人間のテーマ」なのである。

 本来ゴジラのテーマと呼ぶべきなのはもっとおどろおどろしい旋律を特徴とするもので、初代『ゴジラ』の上陸シーンなどで流れているものだ。これは聴き比べてみれば、どちらが何を表現したいか誰にでも分かると思う。*1

 本作でも銀座のゴジラ登場シーンではゴジラのマーチが使用されており、この点では『シン・ゴジラ』同様筆者は失望しかけたのだが、終盤の「ワダツミ作戦」におけるアップテンポでの用法は完璧といってよく、近年はまずお目にかかれないものであり、かなり「分かっている」選曲といって差し支えない。

 

長くなってきたので、後半の「悪いところ」は別記事にする。

それでは。

*1:前半に流れるのが有名なゴジラのマーチ、後半が本来のゴジラのテーマ

ゼノブレイド3 感想

こ(以下略)

 

 『ゼノブレイド3』(以下、「本作」)をクリアしたので感想を書いていこうと思う。

 ネタバレ全開で書いているので未クリアの人はご注意を。

 

全体の感想

 一言で表現するなら良ゲー以上、神ゲー未満という所。少なくとも買って遊んだことを後悔するような出来では決してない。

 これは恐らく方々のレビューで指摘されていることだと思うが、評価を落としている主な要素はシナリオであり、それ以外は概ね完成された作品であった。

 こんな辺境のブログにやってくる人が購入の参考にする情報を求めているとはあまり思えないが、買うかどうか迷っている人はここまで読んだらもう十分なので、パッケージを買うかe-shopで購入しよう。

 では、各要素の感想に入るが、最も言いたいことが多くなってしまうシナリオについては最後に回すことにする。

 文章の構成上、こうするとどうしても辛口の印象がつきやすいが、筆者個人としてはこのゲームを極めて高く評価しているということは、ここで述べておく。

 

マップと探索要素

 WiiUで圧巻のオープンワールドを創造し(『ゼノブレイドクロス』)、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』に参加するなど、マップの作成能力には定評のあるモノリスソフトだが、今作においてもその実力は遺憾なく発揮されている。

 今作のマップは前作や前々作の「巨大な生物の上に世界がある」というインド神話的にぶっ飛んだ設定と比較すると割と普通の大陸なので、あれほど特異な地形が沢山あるわけではない。

 しかしながら、分割された各エリアがかなりの広さを誇り、そこかしこにイベントやアイテムが散りばめられているので、視覚的にもゲーム的にもプレイヤーを退屈させることがない。

 筆者が感心したのはガイド機能で、これは前々作のリマスターにあたる『ゼノブレイドDE』の時点であったものがさらに進化を遂げて搭載されている。

 このガイド機能はかなり優秀で、これに従ってさえいれば決して迷うことはないので、寄り道を推奨する本作のデザインとかみ合わないのではと製作者は悩んでいたようだ。

ただ、ガイドの仕組みは本当にガイド通りにしか進まなくなって、
脇道にもっと面白いあそびがあるのに、
そういうところを見てもらえないのではないか
という懸念が、個人的にあったんですけど・・・。

モノリスソフト取締役 高橋 哲哉)

(下記リンクを参照)

www.nintendo.co.jp

 しかし、遊んでみれば分かるが、これは杞憂であった。

 矛盾しているようだが、目標への最短経路を示してくれるナビゲーション機能が、かえって寄り道しやすくしてくれている

 「どこを通れば先に進めるか」が明確であれば「敢えてそこから逸れる」という選択を取りやすくなる(たとえばナビゲーションが正面を指しているなら、左や右に向かえば寄り道できると分かる)し、仮に寄り道をして良く分からない場所に出てしまったとしても、その気になればすぐに本筋に戻れる安心感があるのだ。

 このナビゲーション機能と、大幅に緩和された落下ダメージ、水中で戦闘が可能になっていること(!)など、一作目、クロス、二作目とシリーズを重ねて培ってきた経験が最大限に活かされ、極めて快適な探索体験を実現している。

 本作を遊んだ者ならばほとんど誰でも「寄り道しすぎて本筋が進まない」という経験をしているはずだが、この秘密は秀逸な設計によるところが大きいだろう。

 付け加えておくと、本作には前作や前々作からの繋がりを強く感じさせる風景や事物が多くみられ、シリーズ経験者なら好奇心を強く刺激されること請け合いである。

 探索のキモであるサブクエストについても、今作では一つ一つのストーリーが丁寧に作りこまれており、無味乾燥に「○○を3体倒してこい」みたいなものはなくなっている。これは本当に素晴らしかった

戦闘

 オートアタックを採用し、複雑で奥深い戦闘で知られてるゼノブレイドシリーズだが、本作でその戦闘は完成形になったといってよい。

 『ゼノブレイド2』で複雑化を極め、脳汁が出る戦闘を極めたシリーズではあったが、奥深く面白い一方で、(ゲーム中にチュートリアルを読み返す機能が実装されていないこともあって)ユーザーにとっては過酷な学習曲線を描いていた。

 本作の戦闘は、無駄を徹底的に削ぎ落とすことで、分かりやすさと奥深さを両立している。これだけでも難しいのに、パーティ最大7人での同時戦闘などという無茶をやっているのだからもう恐れ入るというしかない。

 ユーザーからのアクセスという意味でもかなり気を遣われており、チュートリアルがいつでも読み返せるのは当然として、RPGとして異例なことにレーニング機能まで搭載している。

 戦闘が苦手な人のためにかなり優秀なオートバトル、難易度選択も完備で、このあたりは本当に文句のつけようがない。

 細かい欠点を敢えて挙げるならば、やはり多くの敵味方が入り乱れる関係上、自キャラとターゲットの関係が分かりにくい(どの敵をターゲットしているのか、そもそも自キャラはどっちを向いているのか等)こと、右スティックの押し込みによるステップが操作としてやや使いにくいこと、前作であったようなハイテンションなナレーションがなく(これは本作の雰囲気もあるので好みの範疇でもあるが)経験者としては一抹の寂しさを覚えることであろうか。

 特に自キャラとターゲットの位置関係は、ターゲットの向いている方向と一部スキルの特効が関連し、さらにそれがアタッカーのDPS(秒間ダメージ)に直結する本作ではかなり痛いところで、オートで敵に近づく機能や、方向判定の多少の緩和(特に体の大きなボス)が欲しかった所である(アップデートで来ないかな)。

音楽

 質は間違いなく高い。

 しかし、これはシナリオの項目でも書くつもりのことだが、本作は全体的に雰囲気が暗く、またキーアイテムとして篠笛が登場する関係上、その侘しさを感じる音色が頻繁に現れるので、派手な曲やノリノリの曲が流れにくい

ja.wikipedia.org

 ゲーム・ミュージック音ゲーなどの一部ジャンルを除けば、重要ではあるが脇役でもあるため、ゲーム音楽の使い方として間違っているわけではない。

 間違っているわけではないのだが、だいたいの方向性が統一されると、その分、各曲の多様性が分かりにくくなってしまう弊害がある。

 前作、前々作と比べると、本作の音楽は印象に残りにくい人が多いのではないかと思うが、それは音楽そのものの品質が悪いのではなく、音楽が飽くまで脇役に徹しているからなのだ。

 たとえば、とある場面で流れる前作の名曲のアレンジは、気づいた人であれば確実に記憶に残っているであろうし、幾度となく流れるメビウス戦のイントロも覚えていることと思う。

 あのように、音楽そのものも主役級として前面に出る場面であれば、本作もしっかりと記憶に残るようにできているのだ。

グラフィック

 前作から大幅に進化している。キャラクターモデルは実に作りこまれており、動きも遥かに自然になった。

 露出度が高くもないのにあまりにもハレンチすぎるフルメタジャガーのユーニなど、製作者の性癖と飽くなき拘りを強く感じさせられるモデリングも沢山あって大変によろしい。……余は満足しておる。

 話を戻すが、フィールドの空気感、モンスターの造形、ムービー中の表現なども高水準にまとまっている。

 唯一の欠点はムービー自体が長めかつ頻度が高いこと。

 寄り道が多いゲームなので全体のプレイ時間からするとムービーの時間など微々たるものだが、メインクエストやヒーロークエストに集中しているためある程度連続して見ることが多く、クオリティは悪くないものの「あーまた操作できない時間か」とは正直思ってしまった。これは次回作からは少し改善してもらいたいところである。

シナリオ

 これを最後に持ってきたのは、これが本作においてほとんど唯一、賛否でいえばやや否寄りの評価を筆者が下している要素であることと、単純に長くなりそうなことが理由である。

 繰り返すようだが、筆者は本作を高く評価している。ここに書かれていることが、上記の美点を打ち消して余りあるような欠点だとは考えていない

 世界設定

 本作は上記の「マップ」の項目で述べたように、主人公たちがよってたつ大地そのものにはそれほど突飛な設定は採用されていない。

 その代わりに、その世界の上で展開されている社会構造、自然の摂理、人々の関わりなどがいずれも飛ばし気味だ。

 そして色々ある中でも、特に「10歳の状態で作成される少年兵たちが、最大10年の寿命の間、命を削り合う」という、どう見ても地獄としか思えない設定が際立っている。

 最初にPVでこの設定を知った筆者は、その瞬間から「話を作りにくそうだな」と感じていた。というのも、当たり前だが、この設定であれば基本的に「10~20歳の若者」しか登場しえないし、あまりにも現実世界の(日本の)状況から乖離しすぎていて、プレイヤーが登場人物の心境を想像するのが難しいからである。

 上で筆者は地獄と書いたが、現代日本人の感覚からすると何がどうあれ、この状況は是正すべき大問題としか思えないので、それを前提にシナリオを構築する必要が生じてくるのだが……。

 基本的に話が暗いのは好みの問題だが、これは『エルデンリング』などでも目立ったことだが、過度に雰囲気を一定の方向に寄せると、BGMや風景、各種施設など他のところにしわ寄せが行きやすい

 本作の場合は、BGMにややその弊害が出ていると思う。

 あとは、特に終盤の展開について分かりにくい部分が目立っている。

 たとえばオリジンとはどういうものなのか、等、比較的大事な情報がムービーでさらっと流れてしまうので、一度誤解してしまえばそれっきりになってしまうのである。

 ここは用語集的なTipsで読み返したかったところだ。

キャラクター

 本作の登場人物、特に悪役は、構造上、この前提と真っ向から反することを余儀なくされており、分かりやすく言うと「とんでもない逆張り野郎」にならざるをえない宿命にある。

 設定からの当然の帰結として、主人公たちは過酷な摂理を変革すべく冒険をすることになるわけだが、悪役、たとえばこの寿命システムを運営し、そこから利益を得ているメビウスたちは、「このシステムが存続しなければならない理由」を私見として述べることを要求されるのであり、度し難いゲスになるか、さもなくば何かよう分からんことを長々述べる頭おかしいやつになるかの二択が迫られている。

 ゲスの方は良い感じに外道になっていてなかなかいい感じの出来なのだが、よりによってシナリオの要所に登場する「悟ってそうなキャラ」とかが、後者の「頭おかしいやつ」になってしまっている。

 たとえば見飽きるほど圧死シーンを繰り返し映されるヨランは、「いつも仲間の足を引っ張ってしまう劣等感の塊」「得意なことはあるが悲しいほどこの世界のニーズと合っていない」「優しくて気弱な子供」と設定的にはきちんと整っているのだが、寿命十年で殺し合う世界を何とかしようという時に「弱者は選べない、僕は空を飛ぶ鳥じゃなくて地を這うミミズ」とか言われてもこっちは困るのである。

 だからそれを今から何とかしようとしとるんじゃ黙って見とけヴォケ!

 ……。

 いや、彼の問答それ自体は悩みとしてわかる。

 とても人間的で共感できる部分もある。

 だが、今じゃないだろそれは。

 今する話かそれは?

 「戦闘技能」という限られた技術のみが評価されるうえに、どっちみち10年で死ぬクソみたいな世界が広がってるんだぞ。

 どう変わってもたぶん今よりマシだろ。

 「強い君たちはいい。でも弱者はどうすればいい?」?

 いや今は死ぬしかないけど変わったらもうちょいマシなんじゃないですかね、普通に。

 この辺の悪役の問題提起(特に終盤に多い)が筆者から見てズレまくっているので、いまいち心に響かないのだ。

 初期状態が全く議論の余地がないほど変革の必要性が常識的に明らか過ぎて、まずそこで勝負すんなよ……という気持ちが強い。

 たとえばそういう過酷な状態にしないと世界の維持がかなり厳しいとか、もうちょっと何かこうあったと思うのだが、結局過酷な理由がメビウスの趣味なので本当に議論の余地がなさすぎる。なぜこんなことになってしまったんだ……。

 このあたりの話で割を食っているのはメビウスだけではなく、たとえば後半のヒーローとしては登場機会の多いゴンドウ

 たぶん遊んだ人ならかなり印象に残っていると思うが、いや、どんな事情があるにせよ、いくらなんでも余命1カ月のやつの寿命を揶揄すんのは人としてライン超えでしょ。病室で余命幾ばくもない患者に同じことできるか? 無理だろ普通。

 このセリフには大した意図がなかったことが後ほど発覚するうえ、以降のゴンドウが別人かってくらい普通にいいやつなので(多少口はキツいけど)、特に初対面のあのシーンがかなり浮いて見える。

 なんていうかこう、こういう小難しい議論をやりたいならこの辺の設定はもっとマイルドにしとかないといけなかったと思う。

 明日の食事にも事欠く状態で哲学の議論をやってるようなおかしさがあるのだ。

 閑話休題

 キャラクターについては、もちろん良い部分も沢山ある。

 主人公パーティは、それぞれに個性的かつ魅力があってプレイヤーを惹きつけてくれるし、仲間となるヒーローたちも、デザインと性格描写の両面でそれぞれに好感が持てる。NPCたちとの関係を表現したキズナグラムも合わさって、とても楽しい。

 変化に富むサブクエストと合わせると、本作のキャラクター造形は(悪役以外)よくできていると言えよう。

結末について

 本作の結末は、何ともスッキリしないものとなっている。

 最後にノアは、ミオと再会できたのか? そういう部分はまだいいのだが。

 そもそも、「二つの世界があって、それが近づいて、(結果的に)すれ違って終わる」という流れそのものがこのモヤモヤの主たる原因であろう。

 ある程度ストーリーを楽しむ我々現代人は、その常として止揚型のシナリオに慣れ親しんでいる。たとえばα世界線とβ世界線があるとするなら、トゥルーエンドは絶対にその狭間のどこかにあるはずだし、ロウとカオスが永遠に争う世界のマルチエンドを見た時に、結局トゥルーはニュートラルなのではと考えてしまうという、そういう習性がある。

 ただ二つの真ん中を取ればいいというのではない。

 重要なのは、変化の前と後を比べて、後の方が何らかの点で進んでいるというところだ。

 漫画家の荒木飛呂彦などはこの点を明言しているが(もっとも荒木の言うものは、もっとミクロな話の展開をも含んでいる)、結局のところ何も、あるいは大して変わっていない結末というのは、読者やプレイヤーからして徒労感が強い

 ノアたちの世界とミオたちの世界が、ぶつかる直前の状態で再生されてそのまま進んでいくのなら、俺たちは何のために戦ったんだ? と。

 世界の見た、マジで泡沫の夢じゃねえか……。

 そもそも結局大して変わってもいないのに、あのZとかいうやつは何をあんなに恐れていたのかと。

 こっちは新たに生まれる統合世界のルールを決めてしまうのではくらいの緊張感をもってラスボスに挑んでいたのだけれども……。

 この部分はいまだに本当に納得がいかなくて、何も変わらねーのになんであいつら強者がどうとか弱者がどうとか言ってたんだろうみたいな気持ちがぬぐえない。

 マジで意味なかったのでは……あの議論。

 いやまあ、アイオニオンの地獄みたいな環境から抜け出せたのは良かったと思うんだけれど、ただ俺と旅をしていたノアたちと、最後に出てきたショタたちは俺の中では別人なんだよな……ノアとNくらいには。

 このあたりは本当にDLCで何とかして欲しい。

 頼むから前日譚より後日譚を作ってくれ……頼む……。

終わりに

 深夜に筆を執ったからか、思った以上に感情が爆発してしまっているが、シナリオについてもこのくらいにしておこう。

 いや、長期間凍結していたこのブログを再開させたんだから、実際凄いよこのゲーム。みんなもやろうぜ、ゼノブレイド3を!

『サイバーパンク2077』発売延期から読み取れる危険な兆候について

「この文章には、あることの他にないことも書かれている。ここで読んだことは、あくまで『ここだけの話』としておいてもらいたい。ご利用は自己責任で、ということである」 

はじめに

 

 今日未明、11月19日発売予定だったサイバーパンク2077』の発売延期が突如として発表された。

 開発元が『ウィッチャー3』のCD PROJECT REDということもあって筆者も期待しているアクションRPGであり、残念でならないニュースだ。

 さて、もしこれが単なる延期のニュースなら、ここで記事は終わりなのだが、この件は少しばかり立て込んでいて、実のところ筆者はソフトの品質そのものに疑念を抱きつつある。

 今回はその点について、少し掘り下げてみようと思う。

延期について

 まず大前提として、ゲームソフトが当初の発売予定日を先延ばしにする行為そのものは、決して珍しいことではない。

 その理由はさまざまだが、ほとんどの場合は「ソフトの品質が商品としての水準に達していない」という文言でまとめることができる。

 これは同時に、当初の開発スケジュールが見込みとして甘かったことと同義であり、開発体制についてユーザーに不信感を与えることを意味する。

 そのため、発売日が迫っているにもかかわらず、ソフトがなおも開発中であるときに、苦肉の策として採られるのが、延期という選択肢なのである。

 技術的にも期間的にも余裕をもって開発されたソフトと、当初の締め切りを守ることができず、延期に踏み切ったソフトでは、多くの場合、当初の予定通りに開発されたソフトの方がクオリティは高いものである。

 適切な開発スケジュールの設定には、自社の開発力とソフトの規模を正確に把握することが必要なため、これが出来ている開発は「身の丈」を知っており、バランスの良いゲームを作りやすいと考えられるからだ。

 これらのことから、基本的に延期はできる限り避けたい「悪」だということが分かる。 

今回の特殊性

 一般論はこのあたりにして、では『サイバーパンク2077』の延期事情について振り返ってみるとしよう。

 このソフトは、当初は今年4月16日発売の予定であったのが、コロナ禍などの諸事情により開発が遅れ、9月17日発売に延期され、それがさらに11月19日に延期された。

 つまり、今回の延期、つまり12月10日までの延期は、最初から数えるとすでに三回目の延期ということになる。

 三回の延期というのは業界で聞かない話というわけではないが、少なくともすでに難産の域にあるとは言えよう。

 これだけでもソフトの品質に不安を持つ十分な要素ではあるが、問題はこれにとどまらない。

 開発元は、さる10月28日にマスターアップ、つまりは開発完了を宣言している。

 これは、開発者自身の言葉を借りるなら、以下のようなことを意味する。

「ゲームの出荷準備ができており、クリアすることが可能で、すべてのコンテンツが実装されている」

 ここで、「だったら発売可能なんじゃないの?」と疑問に思われた方がいるかもしれないが、字義通りに解釈するなら、実際に発売自体はやろうと思えば可能な状態にあるということなので、この疑問は的を得たものといえる。

 実際、マスターアップ宣言後に延期するというのは、そもそもが矛盾した行為であり、業界でもかなり異例だ。

 まとめると、「延期がこれで三度目であること」「すでにマスターアップを宣言していたこと」この二つが今回のケースで特異な点だといえる。

いま何が起きているのか

 上でも書いたように、マスターアップ宣言後の延期というのは異例のできごとだ。

 こういったことをやってしまった例としては、筆者の知る限りでは成人向けゲームの小規模なチームが破綻した開発計画を無理やり実行したものくらいしかなく、そういった場合は(これも筆者の知る限り)例外なく品質的にかなり問題のあるソフトが発売されてしまうか、そもそも発売自体が中止になってしまう、といった結末を辿っている。

 くどいようだがマスターアップをしたということは、開発者自身がゲームがプレイ可能なことを一通りチェックして、GOサインを出したということだ。

 マスターアップしたゲーム内容が初期生産分のディスクに焼かれることになるため、さすがにいまどきほぼいないとはいえ、ネットに繋がずゲームをしている人にとってはそれが「決定版」となる。

 なので、その時点で最低限は遊べ、なんとか商品として許容できるというのが、品質管理上もとめられる水準だったのである。

 ところが、CD PROJECT REDは土壇場で現行バージョンを商品として不可としてしまった。

 これが意味するところは分かりきっている。

 つまりは、マスターアップ宣言直前には見つかっていなかった重大な不具合、それも商品として流通させれば問題になることが必須のものが発見されてしまったということだ。 

推測:抱えている問題

 発売延期の発表には、延期の主な理由がなんだったのか、はっきりとしたことは書かれていない。

 しかし、ある種の示唆がここにはある。

 このゲームがPCのみならず、コンシューマー現行機、次世代機、そしてStadiaのようなクラウドゲーミングサービスにも対応しており、これらの数多いバージョンの存在が負担になっている旨が明記されていることだ。

 言うまでもないが、これは延期の直接的な理由を説明しているのではなく、その理由が生じた遠因、ここでは多数の対応プラットフォームという悪環境を挙げているにすぎず、つまり遠回しな言い訳である。

 複数のバージョンを管理し、いずれのハードでもスムーズに遊べるようにすることは確かに大仕事ではあろうが、では具体的に現状の何をもって「スムーズではない」と判断したのかが、ここには書かれていない。

 思うに、これは敢えて書かなかったのではなく、書けなかったのであろう。

 開発者としてマスターアップ後に重ねて延期をすることの意味については重々承知しているはずで、ここで延期の理由を曖昧にすることがさらに不信を招くことも理解していたはずだ。

 となると、それでもなお書くのが憚られるような問題が見つかってしまったとしか、もはや考えようがない。

将来の予測

 対応の強引さをみるに、目下開発者が必死で対応しているであろう不具合は、例えばセーブデータを破損しうるほどのものであっても不思議はない。

 よって、明記されている「クオリティアップ」とは、決して開発者の職人的こだわりや矜持による、100%を120%にするようなことを意味したようなものではないだろう。

 せいぜい95%を100%にする、悪くすると、75%を80%にするようなことかもしれない。

 延期期間がわずか21日であるというのも、この状況ではかえって不安である。

 この段階で上に書いたような重大な不具合を見落としているというのは、品質管理体制に大きな問題があることを示唆しており、恐らくまだ見つかっていない問題が、それも大きなものが多数あると考えられる。

 たった3週間でこれらが払拭できるとするのはあまり合理的な結論には思えず、どちらかといえば、これが経営上許される限界の日数だとした方が腑に落ちる。

 まず12月10日に発売に漕ぎ付けられるかがかなり怪しいけれども、仮にできたとして、発売同日に配信される(であろう)大容量パッチでは今の段階で見つかっている重大な問題を修正するのが精一杯で、これから雨後の筍のごとく生じてくる問題には、とても手が回るまい。

 つまり、サイバーパンク2077』は高い確率で未完成品として発売される、と筆者は踏んでいる。*1 

終わりに

 『サイバーパンク2077』は、筆者が今年最も期待していた作品である。

 であるだけに、この結論は極めて残念だが、もはやこのゲームに大きな期待を抱かぬ方がよいだろう。

 ゲームデザインや選択肢の多様性は期待通りだったとしても、膨大なバグが望むようにプレイさせてくれない可能性は無視できず、悪ければそもそも基本要素やバランスが崩壊しているかもしれない。

 未完成品を摑まされる覚悟がないのなら、発売日以降のレビュー等を参考にしてから購入を検討すべき一本だと、言わざるを得ないのである。*2

*1:12月10日の発売日が守られるとしてだが

*2:ちなみに筆者は覚悟があるので買う。ただし、覚悟があるということは文句を言わないということではない