前半の記事では良いところについて書いた。
(ネタバレあり)『ゴジラ-1.0』鑑賞直後の感想~良いところ~ - 雑炊閣下備忘録
後半となるこの記事では、この映画の悪いところについて書いていこうと思う。
良いところ
悪いところ
- 人間ドラマパートのリアリティの低さ
- 台詞のオリジナリティのなさ
- 時代背景による制約
- 無用のファンサービス
悪いところ
1.人間ドラマパートのリアリティの低さ
本作最大の欠点。怪獣映画における人間パートはそもそも見られたものではない事が多いのだが、前半の記事で述べたように、本作は「これまでの怪獣映画の構図を超克する」ということを(恐らく)意図している。そのため、人間ドラマパートの不出来が過去作以上に響いてしまうのだ。
リアリティのない部分をいくつか具体的に挙げるが、これはもう冒頭から酷いもので、「いや主人公が撃ちそうにないなら整備士でもなんでも一か八か撃ちにいけよ」と思ったし、少し進んで「いくらなんでも情報統制でゴジラのことを一切知らせないのは不自然だろ」が続き、「せめて自分の身内には教えて避難させとけよ」が繋がっていく。さらに「あの高さだったら水に落ちても良くて大怪我だろ」「逃げ惑う群衆の中でよく会えたな」「なんぼ理由があっても予備の整備士くらい探しとけ」などなど、文字通り枚挙にいとまがない。
細かい問題はともかく、身内にゴジラの危険を知らせるか否かというのは生死に直結する問題であり、ドラマのおおまかな流れにもかなり強く影響してくる部分なので、これだけでもなんとか言い訳を用意して欲しかった部分である。
「なんで嫁に貰ってやらなかったんだ!」という台詞などは、てっきり「なんで避難させなかったんだ!」と言い出すかと思っていたので真剣に脱力した。こんなことがあっていいのだろうか。
2.台詞のオリジナリティのなさ
本作にはどこかで聞いたような台詞が多すぎる。時代背景的に、本作は台詞一つとっても細心の注意を要するべき場面が多い。「俺の戦争が終わっていない」などと言っても、離島にいきなり恐竜みたいなやつが現れて駐在部隊を壊滅させた、などという終わり方は、そもそも戦争とかそういう問題ではないのである。
他にも「この国は変わらん」「お得意の情報統制だ」などと言う割に、なんだかんだ軍艦で働く人々を見て「良い顔をしてる」などと言うし、お前の戦争を続けたいのか終わらせたいのかどっちなんだという感じがしてくる。
このあたりの台詞の陳腐さは、時代の描写の不足にも繋がっており、かなり残念な部分である。
3.時代背景による制約
本作は官・軍主導の「ヤシオリ作戦」(『シン・ゴジラ』)に対して民間主導の「ワダツミ作戦」を描く意図で、終戦直後に舞台背景を設定したと思われる。(詳しくは前半の記事を参照)
しかし如何せん、この時代はそれそのものが重すぎる。国家が総力戦に敗れ、複数の主要都市が焼け野原になった時代というものは、あらゆる意味で余裕がなく、本来ゴジラのごときフィクションが介在する余地を持たない。作れるとしても「戦後の復興物語」とか「そこで暮らす任侠の物語」くらいしかないのである。
それを強引にゴジラ映画として成立させようとするので、色んなところに無理が生じている。その一例が、異様に低いゴジラの耐久力である。この時代の日本で倒せるようにするにはこういう設定にする他ないが、この結果「米軍が総攻撃すればたぶん普通に倒せる」というエメリッヒ版ゴジラみたいなパワーバランスになってしまった。
もちろん設定のあり方としてはこれでも良いのだが、このために米軍に参戦してもらうわけには行かなくなり(話が終わってしまうので)、GHQ統治下の日本において明らかに軍事的支援が必要とされる局面において米軍が動かないという不自然極まりない状況になってしまった。いくらソビエトの動きを警戒するといっても、数万人におよぶ犠牲者を出した後のゴジラ対策になんの干渉もしてこないというのは流石に納得できない。
『シン・ゴジラ』で言及されたように、海を渡るゴジラは当然に米国に上陸する可能性もあるわけで、米軍もいくつもの軍艦を沈められている以上、対岸の火事と見ていられるわけはないのだから。
こうした設定の玉突き事故の他に、時代特有の市民感情、何を描くにしてもにじみ出てきてしまう匂いのようなものも、本作にとっては邪魔になってしまっている。
例えば、人々の間には実際に空襲で街を焼いた米軍に対する憎しみなどもあって然るべき時代であるが、そんなややこしいものはこの映画には登場しない。そういうことがやりたいわけでないからである。
しかしさすがに敗戦について誰もノーコメントというわけにもいかないので、取ってつけたような愚痴台詞(「この国は変わらん」みたいなやつ)だけが残るのである。うーん……。
このように、本作の背景設定は怪獣映画を描くのに適したものとはいえず、むしろ多分に全体の負荷を増す要因になってしまっているといえる。
せめて台詞回しが秀逸であれば、まだ目につかず流せたかもしれないのだが……。
4.無用のファンサービス
ここまでは包括的に語ってきたが、この項目では一点に絞った話をする。
それはまあつまり、誰もが思ったであろう「いや絶対死んでたよね?」のやつである。
ラストシーンで首筋に映っていた、ゴジラの背びれを思わせる黒いシミ。あれの意味するところはシリーズファン(特にVS)にはほぼ明白で、要するにG細胞である。
いやもうマジで、G細胞以外の何物でもないし他に解釈のしようがなくてビビっている。
忙しい人のために簡単に説明すると、G細胞とは平成VSシリーズで登場したゴジラの細胞のことで、めっちゃ生命力が強いことが特徴である。
どれくらい生命力が強いかというと、これとバラとヒトの細胞が合体すると、ビオランテが生まれる。
さらに『ゴジラvsデストロイア』では、体を両断されても刃が体を通り抜ける前に再生するので無傷なように見えるという出鱈目な増殖能力まで披露していた。
というわけで、だから助かったのである。より正確に言うなら、たぶん衝撃波で粉砕されているが、そのあと爆縮やらなんやかんやで肉片がゴジラの細胞に触れて生き返ったのであろう。魔人ブウかよ。
お話として浜辺美波は死んでたほうが絶対に綺麗に終わっていただろとかそういうことはこの際わきに置くとして、ご都合主義で生きてるなら生きてるで、なんでちょっと不穏にするんだというのがどうしても頭から離れない。
この描写の意味するところはただ一つ、沢口靖子が浜辺美波になったバージョンのビオランテが生まれるかもしれないということなのだが、これで喜ぶやつが一体どこの世界にいるのか。ファンサービスにしてももうちょっとやり方ってものがあるだろということである。
長々と書いたが、ぶっちゃけラストシーンのツッコミで細かいところは全部頭から吹っ飛んでしまっているので、そういう意味では天才の所業と言えるかもしれない。
以上、鑑賞直後の感想である。
皆も見よう、『ゴジラ-1.0』!